愛知県古民家の特徴について(22)

船枻造形式
三河山間部の設楽町・東栄町・作手村・津具村・豊根村に分布する農家の形式は、船枻造に必ずしも統一されている訳ではない。船枻造でない直屋や釜屋建(豊川中流以南の形式と異なる)も混在するが、船枻造の占める割合が少なくない。

隣接する信濃の伊郡谷の飯田市以南では、根羽村・売木村・天竜村・清内路村・阿南町・泰阜村・南信濃村・上村の広範囲に散見することができ、遠江の水窪町・佐久間町にも散見することができる。
作手村では船枻造・鳥居建・釜屋建が村を3等分するかに分布している。矢作川水系に鳥居建がみられ、豊川水系の島田川流域に釜屋建がみられる。船枻造は豊川水系の設楽町に流れる当津具川流域にみることができた。
また、船柑造と釜屋建(豊川中流以南と異なる)が混在する地方は、天龍川水系の振芋川・御殿川流域の東栄町の南部にみることができる。船枻造は架構造の名称であって、間取り(平面)からの名称ではない。また、この地方には間取りからの形式に対する名称は残っていない。

愛知県古民家の特徴について(21)

明治になって建造されたとみられる釜屋建は、18世紀末以来の間取りや構造であるが、側回りや屋内における柱間に変化がみられ、1間毎の柱間や3尺間の柱が除去されて、壁が引違戸に改められ、開放の柱間に建具を入れた各部屋の動線が自由になった様子を知ることができる。また居宅と釜屋境の前面に庇を付けて風呂が設けられるのも明治の特徴とみている。この時期に、大屋根が葺おろしであったものを、瓦庇に改め始める時期でもある。しかし、従来の土庇は継続されて、大正から昭和戦前まで続いたようで、前面に縁を設けるのは戦後になってからが多くを占めている。

愛知県古民家の特徴について(20)

豊川・天龍川流域に現存する遺構では、18世紀から19世紀末期に建造されたものである。

直屋建(大型)は数例で、直屋に片流れ屋根付と釜屋建が少なくない。直屋の小型の構えは、発見することができなかった。釜屋建が多く残った理由を想像するに、江戸末期から明治初期にかけて、生産や生活形態の変化に適応できる規模であったと考えられる。小型の直屋が現存しないのは、生産や生活形態に適応するだけの規模でなく、建替えられたか釜屋が増築されたと判断されるのである。
現存の遺構から建造年代順に分類すると、次のような順序に考察することができる。だが建造年代を明確に示す史料は現在のところ全くない。したがって、建造年代は材質・材の太さ・仕上げ・架構造・間取り・仕口などの各調査を総合的に判断をしたものである。復原は使用材の新旧・仕上げ・仕口・改変された痕跡などに、その地方における類似形態を含めて解決を試みしたものである。

愛知県古民家の特徴について(19)

現存の遺構からは、江戸中期(18世紀初期)から明治初期(19世紀末期)までに建造された形式を知ることができた。これら建造年代を明確にする史資料は、現在のところ現物以外に有力な手懸りは発見されていない。先の文久三年が直接関係する唯一の史料である。匂坂中村絵図を検討すると、天龍川の東側にあって現在は磐田市である。東西386間(約700m)、南北606.1間(約1,100m)でおよそ23万4千坪(77ha)である。家屋の姿図の総数116戸(屋敷1棟の計算で附属屋を除く)で、社寺の釜屋建4棟、直屋6棟、農家の釜屋建35棟、直屋に片流れ屋根3棟、小型の直屋67棟、2階建1棟、その他は屋敷のみの書き込みがある。

この絵図1枚で結論づけることはできないが、社寺に釜屋建があったことからして、
農家の釜屋建は頭百姓以上の格式をもち、小型の直屋は一般の小作百姓の構えであったのかも知れない。

愛知県古民家の特徴について(18)

釜屋建の事例は、圧倒的に農家遺構に代表され、居宅(主屋・居室の床を張った棟)と釜屋(にわ・厩・内倉)の棟(構造とも)を別に構え、平面(間取)では一体を構成する形を造っている。

先述した釜屋・釜屋建・周施釜屋・撞木・撞木造・別棟・分棟・二棟造などと呼ばれている。これらは飽くまでも外観や構造的な要素からの呼称である。居宅は住居専用に構成され、釜屋は出入口・炊事場・内倉・納屋・厩などの多目的な用途に使用されてきたものである。しかし、居宅と釜屋は両棟の軒を接続して建造し、軒の接続部に谷樋を掛け、屋内構成は-体をなしている。

したがって、居宅と釜屋では別の棟であっても、生活や屋内作業場は同一条件の中にあり、二つの棟で一軒の家としての条件が整い、屋内は通常の直屋と何ら変ったところはないと言ってよい。

愛知県古民家の特徴について(17)

釜屋建形式は、現存遺構とすでに公表された資料で、三河の豊川流域から遠江の天龍川流域にかけて分布していた農家形式であるとされてきた。しかし昭和57年に静岡県磐田市で、文久三年(1863)の明記のある遠江国豊田郡匂坂中村の絵図が発見され、必ずしも農家に限ったものでないことが判明した。愛知県側では現在のところ、これらに類する史資料は発見するに至っていない。
文久三年の匂坂中村絵図は、村の耕作地・用水・道・屋敷地・社寺地が色分けされ、社寺と農家の姿図が各敷地内に描かれている。すべての家屋の姿図は描かれていないが、全体の90%強になるものと判断されるものである。

これによれば、社寺にも釜屋建4棟の姿を明確に捉えることができる。この社寺は、増参寺(永禄七年・1564・岩田寺と蔵参庵併)、養明寺(延徳二年・1490)、岩田明神(不詳)、大智院(天正七年・1579)などである。
しかし現在は建替えられて文久年間の姿を見ることはできない。また、この地方だけの社寺に釜屋建が採用されたのか、他の地方にも採用されていたかは現在のところ不明で、今後の調査研究に期待するところ大である。

愛知県古民家の特徴について(16)

構造形式は、断面図に示す上屋と下屋の架構造からなっている。
復原平面図の屋内に示す太い柱が上屋柱(入側柱ともいう)で、外側に示す柱を下屋柱(側柱)という。
柱に架かる横の材を総称して横架材という。横架材の中でも、上屋柱間に架け渡す梁を特に上屋梁という。上屋梁には胴梁(大梁)と叉首受梁があり、この梁の上下を連結する束が中央に立つ。
垂木を支える材を桁といい、桁には上屋桁と下屋桁がある。また、下屋柱の横振れを防ぐために、柱の胴を貫通する貫材があり、建具を入れるための敷居と鴨居がある。そして上屋組の上に大屋根を支える叉首組が乗り、上屋と下屋を連結する繋材(梁)がある。
鳥居建形式の部材には、先述した多くの名称があり、上屋の柱および胴梁・叉首受梁・上屋桁・束等の部材の組合せを軸組と称している。この軸組が先の断面図に示すように、梁間方向も桁行方向ともに同形の組合せになり、これが神社の鳥居の形になっている。このことから鳥居建の名称が生じている。

愛知県古民家の特徴について(15)

愛知県下に分布する古民家の形式について(15)

しかし、この事例は尾張における平野部の四例の土座式であるから、事例も少なく、これが県下一般であったことにはならない。

長野県塩尻市の小松家(重文)や香川県細江家(重文)のように、土間に直接筵を敷き囲炉裏を設けた18世紀初頭の構えもある。他県の2例は山間部であり、愛知県の場合は比較的温暖な平野部である例であり、気候による差異があることが十分考えられる。
床張りは三河と尾張の事例で、先の旧山内宅と永井宅である。土座式と同様に「にわ」と「居室」とに二分され、上屋柱の建つ位置と側柱位置の高低差が五寸(15cm)になっている。上屋柱と下屋柱に高低差があるのは、先述の土座式の構えから床張りに発展して残ったと思われる。床張り材は板とは限らず、竹や木をすのこ状に並べて、その上に筵を敷いていた事例もある。

このすのこの事例は、三河の下山村で18世紀末から19世紀初期の建造とみられる農家で、昭和30年代まで使用されていた例がある。
土座式と同様に屋内での間で仕切は全くなく、囲炉裏を居室のにわ側に設け、にわからも煮炊をするのに便が計られている。屋内の住まい方や屋内作業の使用状況は、土座式と大差なく使用されていたとされる。