濃尾平野の地史(15)

熱田層は砂と粘土層の互層で、全体の厚さは最高60mにも達する。粘土層は上から数えて5枚存在する。いちばん下の第5粘土層はとくに厚く、この粘土層と第4粘土層以下の部分で熱田層のほぼ下半部を占めている。これを熱田層下部と称し、それ以上の砂と粘土の互層を熱田層上部と称する。
熱田層下部は,熱田海進期に堆積した厚い海成の第5粘土層を主体としている。この下部層は、名古屋市内では海面下10~40mの深さに分布するが、名古屋市の西および南部から濃尾平野にかけて厚くなり、30mを越えるようになる。浪尾平野の傾動運動の影響も受けて、西にいくに従って分布深度も深くなり、弥富町付近でほ海面下80~120mの範囲こ存在する。この付近ではさらに第5粘土層の下位に、おそらくは熱田期の海進の先駆的堆積物と考えられる砂と粘土の互層が10~20mほど存在する。
一方、東方の名古畳市内では、第5粘土層は直接八事層または矢田川累層上に形成された波食面状のなだらかな面上にのっており、1~2mの薄層になってしまうところもある。第5粘土層直上の砂は花こう質ないし石英質の砂で、第4粘土層以上の砂とかなり成分が異なっている。この砂層はよくしまっておりN値も30以上50前後の値を示す。大曽根付近から笹島にかける帯状の地域は、かつての川すじにあたるためか、この層準は砂れき層となっている。また、南部地域から濃尾平野にかけて、この層準の砂層は欠けて第5粘土層上に直接上位の第4粘土層が重なるようである。

濃尾平野の地史(14)

熱田台地と熱田層

熱田台地は名古畳市の東側に分布する東部丘陵の西縁をとりまくように分布し、その主体は名古屋市の中心部を占めている。
熱田台地は海抜20mから10m前後の高さを示す平たんな台地である。名古屋城はこの台地の西北端に、足下に広がる沖積平地を見下ろす位置に築かれており、また、その西南端には熱田の宮がある。熱田台地上の平たん面は熱田層の堆積面で、もとは水平であったものが、濃尾平野の候動運動に伴って西ないし西南西方向に傾いた。この熱田台地は、熱田層堆積後の海面低下期に河川の浸食作用からけずり残されて台地化したものである。したがって、熱田台地を構成するものは本来熱田層である。

熱田台地中央部を南北に貫く低地は大曽根面で、ここには大曽根層が薄くのっている。熱田層は初め台地周辺部の地表で観察できる部分に対して名づけられたものであるが、最近では多数のボーリング資料から台地の地下の部分や、沖積平野の沖積層の下に埋
もれている熱田層についても多くの事実が明らかにされ、熱田層の全貌がわかってきた。

濃尾平野の地史(13)

氷期や間氷期のように気候変化のあったことが洪積世の特質である。
最終氷期のヴュルム氷期中には,比較的温度の高かった亜間氷期がいくつか含まれている。この比較的温暖だった亜間氷期には海水も上昇した。熱田層の下部が堆積した後、海は一度大きく退いたが、この亜間氷期の時代に、沈降しつつあった濃尾平野地域には浅海域や三角州が形成された。
この時期に堆積した地層が熱田層上部である。この時期には御嶽火山の新期火山活動があり、当時の堆積物中にはその火山活動によって放出された浮石(軽石)などの火山物質が含まれ、堆積物の時代を知るために役立っている。熱田層の最上部付近には、この御嶽火山の第三浮石が含まれており、その年代は約3.5万年前と考えられている。
熱田層の堆積が終了したとき、堆積物の表面となった堆積面、すなわちその当時の沖積平野の面は現在の熱田台地上の平たんな地形面として残っており、熱田面と呼ばれている。

濃尾平野の地史(12)

熱田期の海進と熱田層
八事期をすぎると、名古畳市域をはじめ濃尾平野の大部分は陸地となった。
この時期の海岸ほ少なくとも現在の伊勢湾よりはるか外側まで退いてしまった。いままでの堆積地には新たに河谷がきざまれ、丘陵や台地となっていった。
この時期の海の後退、つまり海面の低下ほ洪積世の終りから2番目の氷期(リス氷期)のできごとであろう。
こうして干上っでしまった伊勢湾や濃尾平野地域に、ふたたび海水が進入してくる。これは、リス氷期の終りとともに、氷河地域の氷がとけ、ふたたび海水量が増え、次第に海面が高まってきたためである。このときの海は、伊勢湾から現在の濃尾平野地域の全域にまで広がった。この湾入した海の底には粘土層を主体とする地層が堆積した。この地層が熱田層下部である。この粘土層の中には、現在の伊勢湾にすむ内湾性の只の化石も含まれており、現在の伊勢湾に近い環境下にあったといえる。
つまり、この時代はリス氷期とつぎにやってくるヴュルム氷期とにはさまれた間氷期で、気候条件も現在のものに近く、かなり暖かかった。この海進のおきた間氷期の時代は
およそ20万年前から10万年ぐらい前までと考えられている。