名古屋およびその周辺の水害(3)

伊勢湾台風による名古屋の高潮災害
昭和34年9月22日,帝大平洋マリアナ付近に発生し、9月26日午後6時20分ごろ、925・5mbの最低気圧をもって紀伊半島南端潮岬の西寄りの地点に上陸し、その後時速70kmの高速をもって北々東に進行し、午後9時すぎ名古屋の西方約30kmの地点を通過し、本州中部を斜めに検断して日本海へぬけた。高潮偏差(気象潮)は、正午ごろすでに40cm程度あらわれており、気圧の低下に伴い増大し、夕刻から急激に増大して最低気圧に達してまもなく、午後9時35分に最大気象潮3.61mを記録した。
この台風がこのような異常な高潮を引きおこした最大の要因は、台風のコースにある一般に台風の中心から、進行方向に向かって右側では風向はほぼ進行方向であるが、これに進行速度が加わって高風速となる傾向があり、中心から数十キロメートルはなれたところに最大風速が生ずる。伊勢湾台風は、伊勢湾の長軸にほぼ平行に、かつ数十キロメートル西方へ寄った位置を進行し、しかも進行速度が70km/hという高速であったこと、また伊勢湾の形状が風向方向に幅が狭くなるⅤ字形をしていることが、湾奥に異常な高潮をおこした最大の原因である。また小潮ではあったが、干潮より満潮へむかう時刻であったことや、降雨による河川の増水も異常潮位を助けた。
名古屋港の埋立地高さはT.P.+1・5~3・5m程度であるから、最高潮位T.P.+3.89mに達する以前に、早いところでは午後8時30分ごろから浸水がはじまり、多量の海水は埋立地をのりこえて背後の低地帯へ流入した。また河川、運河を逆上した高潮は堤防を破壊し、側面からも陸地へ浸入した。

名古屋およびその周辺の水害(2)

名古屋における水害と関係の深い臨海低地は、およそ次のように分類して理解できることができる。
i) 埋立地
明治、大正、昭和にかけて、港の整備にともない造成されたもので、標高T.P.+1.5~3.5mの地盤高をもっている。
ii)干拓地
徳川期に新田として、遂次干拓されていった地帯で、標高はT.P.-1.0mの低地がかなり広く分布している。
iii)旧開拓地
徳川期以前に開拓された土地で、標高はT.P.+0.5~2.Omくらいの地帯で、北は国道一号線のやや北から関西本線以北におよび、東側は洪積台地の西側に沿って細長く帯状をなしている。
名古屋の低地は現在大部分が市街化しているが、市街化が急激にのびたのは昭和5年以降、とくに戦時中の軍需工場の進出および戦後の経済成長によるものである。防災対策がないままに急激に市街化したことが、伊勢湾台風時に名古屋に空前の被害をもたらす原因となった。

名古屋およびその周辺の水害(1)

既往の水害について注意を払うことは、地域計画、建築計画のうえから大切である。
名古直における代表的水害といえば、昭和34年9月26日の伊勢湾台風を思いださせるが、名古屋はその南部、西部に低平地が発達し、しかも伊勢湾の奥深く位置しているため、高潮の災害をうける可能性をもっている。
名古屋における高潮被害の歴史をふりかえると、大正期には伊勢湾台風以前の名古屋港最高潮位記録を作った台風が、大正10年9月25日、紀伊半島から日本海へぬけ、最高潮位T.P.+2.97mを記録している。
最近では,昭和28年(台風13号)と、昭和34年(伊勢湾台風)に二つの高潮を経験している。昭和28年9月25日の台風13号は、大潮時に伊勢湾の南部を北東へ横断した。このときの名古屋港最高潮位はT.P.+2.87mで、南、港、中区では一部が浸水、山崎川などが氾濫し、浸水家屋は44500戸に及んだ。
昭和34年9月26日の伊勢湾台風は、瞬間風速60m/secにおよぶ強風とともに、わが国最高記録のT.P.+3.89m(N.P.+5.31m)の高潮を示した。このため伊勢湾北部臨海低地はいたるところで浸水し、長期にわたり湛水した。名古屋市域についていえば,浸水面積120km2で市域全面積250km2の半ばに達し、死者2000名,負傷者7000名、全半壊流失家産54500棟におよんだ。

名古屋およびその周辺の地盤災害(9)

③濃尾地震
岐阜県根尾谷付近を震央として明治24年10月28日、早朝6時40分ごろ発震した濃尾地震は、わが国地震史上内陸地震として、けたはずれの規模をもつもので、外側地震帯級のマグニチュード8.4であった。
有感地域は仙台以南の全日本に及び、死者7300人、倒壊家屋142000軒に及ぶ大地震で、根尾谷付近には上下の差5.5m、水平のずれ2mに及ぶ著しい断層を生じ、その延長は北ほ福井付近まで、南ほ南東方へ曲がって岐阜県東推子まで達し、延々100kmにわた
っている。またこの主断層のほかに伊勢湾方向へ向かう断層がみとめられている。一つは岐阜付近から一宮近傍を通り、枇杷島付近へ向かい、他は大垣東方から木曽川の河口付近へ向かうものである。
住家倒壊率は木曽川に沿った中島郡、葉栗郡が県下の最激震地で、75~50%の倒壊率に達し、これに接する海東郡、西春日井郡、丹羽郡が50~25%の激震地を示し、海西郡、愛知郡が10%以上、東春日井郡および名古屋市が約10~5%であった。
名古屋旧市域が4%くらいであったことは、震源から遠く、地盤のよい洪積台地上にあったことによるものであろう。
濃尾地震による地変には激しいものがあった。地割れ、隆起、陥没が主として堤防、道路などにみられ、その事例は枚挙にいとまがない。
井戸、き裂などから噴水、噴砂、噴泥が激震地のいたるところでみられた。これらの現象は新潟地震以来、再び関心事となっている。詳細な記録は愛知県史(上)、ここでは噴砂水のすさまじさを物語る例をいくつか挙げてみる。
① 名古屋市巾下付近で地盤の亀裂から、砂水4.5m以上も噴出。一時はすこぶる猛烈であった。
② 葉栗郡光明寺村で、震動中井戸水が噴き上げること地上90cmくらいで、あたかも数十のポンプから-時に噴水するようであった。
③ 西枇杷島のある井戸は,180~210cm以上も噴砂し、畳上にも砂がみられた。
これら噴砂、噴泥現象の記録は、ボーリング資料の整理が進んだ段階で反省してみる必要があると考える。なおこの地震で、東南海地震の震害地である矢作川下流域において、つぎのように報じられている。
④ 碧海郡近傍田面に噴水し洋々たる水面となった。
⑤ 幡豆郡平坂村字奥田新田では、噴水,噴砂の箇所も最も多く、50ヶ所有余であった。

名古屋およびその周辺の地盤災害(8)

②三河地震
この地震は東南海地震のおよそ1カ月後、昭和20年1月13日3時ごろに発震し、震央は渥美湾北岸付近にあり、震害は幡豆郡および宝飯郡、額田郡の一部に限られた局地的な地震であったが、震害の程度は東南海地震よりも著しかった。戦時中であったことと、局地的であったことから案外一般には知られていない地震である。しかしこの狭い地域に死者2000人、重傷者900人、住家全壌5500、半壊11700、非住家全壊6600、半壊10000を生じた激震であり、宝飯郡形原町から額田郡幸田村深溝に至る南北の線に顕著な断層があらわれた。
三河地震で被害が大きかった地域は、東南海地震で被害が軽く、比較的地盤が良好と思われる明治村、西尾町、横須賀村などに相当な被害を生じ、しかも分布がきわめて不規則であることが注目される。すなわち全壊率30%線内の地域は福地村、横須賀村から東北に延び三和村に至り、ここで西北に折れ曲り、西尾町東部をへて明治村のほうへ延びている。西尾町東部、横須賀村上横須賀において全壊率70%以上に達した。
軟弱地盤である福地村付近ほ東南海地震ですでに多くの倒壊家屋を出しているうえに、再び震害を受けているので、直接比較できないが相当に高率であるとみてよかろう。
断層が町を横断した形原町では、断層の隆起倒すなわち西側におよそ300mの帯状をなした震害激じんな地域が断層線にそって存在し、さらにその西側ほ中程度であり、
断層の沈降側すなわち東側の被害はきわめて軽微であったことは注目すべき現象であった。

名古屋およびその周辺の地盤災害(7)

e)宝永および安政の地震との比較

宝永及び安改元年の両地震は、東南海地震と同じように、外側地震帯の活動によるもので、この際の名古屋における被害状況の一端を、名古屋市史から抜粋してみる。
宝永4年10月4日の地震(1707年10月28日、M=8.4)
10月4日、午後2時頃に大地震あり、城中の諸門あるいは倒れ、あるいは傾き、天守もぬり壁所々剥落す。町屋ほ甚しき損害なかりしも諸士屋敷の練塀は多く10間20間、あるいは5間、7間ずつ崩れ、寺社のとうろう石塔もまた多く倒る。熱田の燈明台も倒れて、海岸は所々地裂けて泥を噴出し、あるいは所々陥落す。加うるに小津波あり、領内の堤防破壊するもの5000間余りな。その後微震数日連続す。
安改元年11月4日(1854年12月23日、M=8.4)
11月4日午前9時頃、およそ1時間にわたる大地震あり。熱田の海岸に高潮起りて神戸町へ海水浸入す。城内諸門、寺社武家屋敷など、皆多少の損害を被らざるなく、所々に倒壊せる家屋あり。
その後数日絶えず余震ありしかば、人心胸々として安からず。広小路、巾下などの広場に居を占め、食を運びて、避難の準備を怠らざりき。(松涛樟筆、雄園漫録、見聞雑割)。
当時の市街は、ほとんど洪積層である熱田台地上にあり、沖積平地の軟弱地盤地帯にほ住家も少ないため、東南海地震のように多数の倒壊家屋を出すほどの被害はなかったと思われる。
熱田台地上の被害程度について、濃尾地震と東南海地震との比較については、一般に地震の被害はしばしば過大に報告されること、東南海地震の資料が戦時中のため欠除していることなどにより速断しにくい。
しかし傾向としては、東南海地震のように震害は軟弱地盤においてはなはだしかったものと考えてよいであろう。

名古屋およびその周辺の地盤災害(6)

(d)名古屋市南部の震害
名古屋市南部の震害分布については、南部の港に隣接した地域で震害の大きいことがわかる。
これらの震害地はおおむね干拓、埋立などにより1600年ごろから開発された地域とはぼ一致しており、軟弱層の発達したところに生じていることがわかる。
ボーリング資料をもとにして.表層の土質と震害との関係を種々検討した結果、この地震については,単なる沖積層の厚さよりも、表層5mまでのつぎのような軟弱層率が最もよい相関を示すことを見いだした。
軟弱層率=軟弱層の総和(m)/ 5(m)×100(%)
軟弱層率70%以上のところでは,いずれも倒壊率が20%以上となっていることがみられる。なお沖積層厚5m以下でも20%以上の倒壊率を示したことは注目に値する。
これらの地点は、洪積層が潜丘的にもり上がったところで、軟弱な沖積層がうすく覆っている。
なお新潟地震によって地震時の流砂現象が注目されるようになったが、東南海地震においても同様の現象があった。

名古屋およびその周辺の地盤災害(5)

(C)矢作川流域の震害
この地震ほ愛知県下では、ほとんどが海岸に近い埋立地に類するところで震害が激甚であったが、矢作川地域でほ海岸から8kmくらい奥に入ったところまで相当の震害を示したことと、約一か月後に再び三河地震の被害地となり、識者の注目をひいた。
両地震による被害と地盤との関係についての研究が、棚橋、佐佐、横尾、西村(1948)によってなされた。
横尾はそれぞれ両地震の直後に同地域を踏査して、部落別倒壊率をしらべて震害分布図を作成した。
この地域において、弾性波探査を実施して地下構造を調べた結果、住家全壊率は弾性波伝播速度200m/秒 程度の軟弱な表層の厚さに比例し、最大層厚9mの場合に全壊率40%に達し、900m/秒程度の地盤では全壊率が10%以下であることがみられた。

名古屋およびその周辺の地盤災害(4)

(b)愛知県下の震害分布宮村(1946)の調査報告から愛知県下で住家倒壊率が町村で4%以上,市で1%以上のところを主にひろってみると下記の通りである。

渥美郡  田原町 4.9% 野田町   9.3% 高豊村 15.6%
碧海郡  高浜町 5.0% 矢作町    8.4% 刈谷町 14.5% 依佐美村 22.4%
幡豆郡  西尾町 5.3% 横須賀村 8.8% 一色町 27.7%
西賀茂郡 三好村 8.6%
中島郡   明治村 11.3%
海部郡  南陽村  5.3% 鍋田村 19.8% 飛島村 31.2%
知多郡 阿久比村  7.3% 武豊村 8.0% 大野町 21.4% 富貴村 31.3%
半田市 4.7%
名古屋市北東部1.4%

愛知県下で震害がとくに著しかったのは,矢作川下流域、名古屋市南部とそれにつづく海部郡南部であることがわかる。
矢作川下流域および名古屋市南部についてはつぎに述べるように極軟弱地盤の発達した地域において震害がはなはだしいが、半田においても同様の傾向がみられ、山方新田では全壊家屋300戸以上を超える甚大な震害を生じた。

名古屋およびその周辺の地盤災害(3)

①東南海地震
(a)概 観 昭和19年12月7日、13時36分、熊野灘の東経136.2°、北緯33.70°(一説には東経137°、北緯34°)を震央とする地震が、静岡、愛知の両県下をほじめ中部、近畿両地方をおそった。
この地震は、慶長9年(1605)、宝永4年(1707)および安政元年(1854)の地震とともに外側地震帯の活動によるものであり、その震害の様相は、この種の地震による震害を示す好例としてみることができる。
震害は-般住家全壊26000戸、半壊47000戸におよび、倒壊家屋を生じた地域は、静岡、愛知の両県下をはじめ三重、岐阜、奈良、滋賀、大阪、和歌山さらに京都、兵庫、徳島、香川、福井、石川、長野、山梨の諸府県下にわたっている。
この地震は震央に近いところでも無被害のところがある一方、かなり遠い地点にも被害を生じ、地盤と震害の関係を顕著に示した。
震軟弱地盤の発達した地区に広くばらまかれていることがよくわかる。倒壊率10%以上におよんだところは、静岡県清水港、太田川流域の見付および森署の両管内および名古屋市南部埋立地の港署管内であり、5%以上の被害を示したものは、静岡県の菊川流域の堀之内、掛川、浜名湖の埋立地をふくむ新居、愛知県の矢作川流域の西尾、知多島の半田、名古屋市埋立地をふくむ南署管内に限られている。
なおこの地震は、紀州潮岬から伊豆下田にわたる津波を伴ったが、震央に直面しかつリアス式海岸の発達した紀伊半島東岸では、津波の高さはいたるところで6mないし8m、一部では10mに及んだ。しかしながら震央に面しているが、海岸線が単調な線をえがいている遠州灘沿岸では1mないし2mにとどまり、さらに震央に直面していない伊勢湾、渥美湾沿岸では海面の上昇は1m未満のところが多かった。