名古屋およびその周辺の地盤災害(8)

②三河地震
この地震は東南海地震のおよそ1カ月後、昭和20年1月13日3時ごろに発震し、震央は渥美湾北岸付近にあり、震害は幡豆郡および宝飯郡、額田郡の一部に限られた局地的な地震であったが、震害の程度は東南海地震よりも著しかった。戦時中であったことと、局地的であったことから案外一般には知られていない地震である。しかしこの狭い地域に死者2000人、重傷者900人、住家全壌5500、半壊11700、非住家全壊6600、半壊10000を生じた激震であり、宝飯郡形原町から額田郡幸田村深溝に至る南北の線に顕著な断層があらわれた。
三河地震で被害が大きかった地域は、東南海地震で被害が軽く、比較的地盤が良好と思われる明治村、西尾町、横須賀村などに相当な被害を生じ、しかも分布がきわめて不規則であることが注目される。すなわち全壊率30%線内の地域は福地村、横須賀村から東北に延び三和村に至り、ここで西北に折れ曲り、西尾町東部をへて明治村のほうへ延びている。西尾町東部、横須賀村上横須賀において全壊率70%以上に達した。
軟弱地盤である福地村付近ほ東南海地震ですでに多くの倒壊家屋を出しているうえに、再び震害を受けているので、直接比較できないが相当に高率であるとみてよかろう。
断層が町を横断した形原町では、断層の隆起倒すなわち西側におよそ300mの帯状をなした震害激じんな地域が断層線にそって存在し、さらにその西側ほ中程度であり、
断層の沈降側すなわち東側の被害はきわめて軽微であったことは注目すべき現象であった。

名古屋およびその周辺の地盤災害(7)

e)宝永および安政の地震との比較

宝永及び安改元年の両地震は、東南海地震と同じように、外側地震帯の活動によるもので、この際の名古屋における被害状況の一端を、名古屋市史から抜粋してみる。
宝永4年10月4日の地震(1707年10月28日、M=8.4)
10月4日、午後2時頃に大地震あり、城中の諸門あるいは倒れ、あるいは傾き、天守もぬり壁所々剥落す。町屋ほ甚しき損害なかりしも諸士屋敷の練塀は多く10間20間、あるいは5間、7間ずつ崩れ、寺社のとうろう石塔もまた多く倒る。熱田の燈明台も倒れて、海岸は所々地裂けて泥を噴出し、あるいは所々陥落す。加うるに小津波あり、領内の堤防破壊するもの5000間余りな。その後微震数日連続す。
安改元年11月4日(1854年12月23日、M=8.4)
11月4日午前9時頃、およそ1時間にわたる大地震あり。熱田の海岸に高潮起りて神戸町へ海水浸入す。城内諸門、寺社武家屋敷など、皆多少の損害を被らざるなく、所々に倒壊せる家屋あり。
その後数日絶えず余震ありしかば、人心胸々として安からず。広小路、巾下などの広場に居を占め、食を運びて、避難の準備を怠らざりき。(松涛樟筆、雄園漫録、見聞雑割)。
当時の市街は、ほとんど洪積層である熱田台地上にあり、沖積平地の軟弱地盤地帯にほ住家も少ないため、東南海地震のように多数の倒壊家屋を出すほどの被害はなかったと思われる。
熱田台地上の被害程度について、濃尾地震と東南海地震との比較については、一般に地震の被害はしばしば過大に報告されること、東南海地震の資料が戦時中のため欠除していることなどにより速断しにくい。
しかし傾向としては、東南海地震のように震害は軟弱地盤においてはなはだしかったものと考えてよいであろう。

名古屋およびその周辺の地盤災害(6)

(d)名古屋市南部の震害
名古屋市南部の震害分布については、南部の港に隣接した地域で震害の大きいことがわかる。
これらの震害地はおおむね干拓、埋立などにより1600年ごろから開発された地域とはぼ一致しており、軟弱層の発達したところに生じていることがわかる。
ボーリング資料をもとにして.表層の土質と震害との関係を種々検討した結果、この地震については,単なる沖積層の厚さよりも、表層5mまでのつぎのような軟弱層率が最もよい相関を示すことを見いだした。
軟弱層率=軟弱層の総和(m)/ 5(m)×100(%)
軟弱層率70%以上のところでは,いずれも倒壊率が20%以上となっていることがみられる。なお沖積層厚5m以下でも20%以上の倒壊率を示したことは注目に値する。
これらの地点は、洪積層が潜丘的にもり上がったところで、軟弱な沖積層がうすく覆っている。
なお新潟地震によって地震時の流砂現象が注目されるようになったが、東南海地震においても同様の現象があった。