伝建地区を歩く 有松(4)

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【▼第4の衰退期】1926~1945年
第一次世界大戦後は恐慌が続く。戦後恐慌から始まり、震災恐慌(関東大震災)、昭和に入ってもなお、金融恐慌、昭和恐慌、世界恐慌と続き、その後の第二次世界大戦(太平洋戦争)へ繋がる最大の衰退期へと突入した。
昭和初年の経済不況の際、政府は有松に根本的な対策を取るよう要請し、有松はあらゆる手を尽くして不況の克服につとめたが戦争が始まってしまう。
戦時統制が始まると軍需生産以外の産業は存続できなくなり、多くの恐慌で慢性的な不景気が経済を支配することとなる。購買力の減退、商品売行も減少し、1930年 世界恐慌では衰退にますます拍車がかかった。不景気がますます深刻化していく中、1931年には満州事変が勃発。1932年の有松絞りの産額は、25万反余といういままでにない最少額となってしまう。
なんとか一旦盛り返すものの、1937年には日華事変が始まって急激に戦時体制が強化され、全産業は戦時統制下となる。町政も戦争の影響で国家の軍事的政策の忠実な執行機関としての役割を担っていた。
さらに、1938年3月になると綿糸配給統制規則が出され、有松町に大きな打撃を与えた。「国内の綿糸の生産加工を禁止しその業は停止」という綿糸配給統制規則が施行され、綿製品の製造販売加工に関する制限規則が実施されたため、輸出向や綿糸・綿織物など製造および小売の販売が全面的に禁止されることとなる。これにより有松絞商工同業組合はとうとう解散となり、絞業者の大半は廃業。有松町は、戦争のために重要な経済の基礎を失ったのだ。
1945年8月 終戦。新しい日本の再建は敗戦後の厳しい現実のなかで始められた。終戦後も繊維はまだ逼迫した状態にあり国家統制がいっそう強化されていたため有松絞りは壊滅状態に追い込まれた。それに伴い有松町も勢いを失い、戦争が有松町に与えた影響は大きなものとなった。

以上が、隆盛期と衰退期から見た有松町です。
このように時代の流れに翻弄され、壊滅まで追い込まれてしまった有松絞りですが、統制が解除されると復興し、社会にゆとりが生まれると共に生産量も増加しました。しかし、昭和の中頃を過ぎると着物離れや安い中国製の製品との競争、後継者不足等、別の問題から生産量が減少した為、問屋業から小売業への転換や廃業が相次ぎましたが、問屋業から小売業への転換は非常に困難を極めたようです。現在ではかつて100種類を越えた技法も大きく数を減じていますが、一方で、1975年には愛知県内で初めての伝統工芸品に指定された他、国際絞り会議の開催と「ワールド絞りネットワーク」の設立、新素材を用いた製品の開発や国外の見本市への出品など有松・鳴海絞り振興のための取り組みも行われています。このように、経済、戦争、交通、技術革新に対応しながら時代を乗り越えてきた有松町の歴史からは、その柔軟さ、あきらめない精神など見習う面が多々あるのではないでしょうか。また、第4次革命(情報革命)と叫ばれる現代においても参考にすべき生き方があるような気がします。

最後になりますが、名古屋市では1990年12月に「有松土地区画整備事業」が決定しており、名鉄有松駅南7haのエリアで道路整備等による土地区画整理計画が進められました。町の発展や生活の利便性を優先するか、古き良き町並みを残していくかは難しい問題だとは思いますが、この事業の確定以降、平成景気と相まって有松が再び発展したにも関わらず、この区画では伝統的建物の急激な減少が見られました。悲しいことですが、町の発展と伝統的建物減少が相関関係にあるのは事実です。この現実をどうにかして調和させていくことが今後の伝統的建造物群保存地区に対しての課題なのだと思います。また、それぞれの時代背景に合わせて隆盛期ごとに建てられた伝統的建物を時代分布してみるというのも非常に興味深いのではないかと感じました。

今回は1935年に出版された有松町史やその他色々な文献を読み、有松の歴史の流れを読み解いてみました。ご指摘箇所も多々あると思いますが何卒ご容赦ください。少し雑駁とした内容になってしまいましたが、お付き合いいただきありがとうございました。

有松写真3
(写真説明)毎年6月に開催されている「有松絞りまつり」で賑わう街道筋の店先

伝建地区を歩く 有松(3)

伝建タイトル

【▼第2の衰退期】1833~1876年
1833年に起こった天保の大飢饉から幕末、西南戦争までは、有松の第2の衰退期となる。
天保の改革で厳しい倹約令が出たことで、絹布絞は大打撃を受ける。その後、天保の改革は失敗し倹約令も解除されたが、外国船の渡来・開港に人心が動揺、著しく物価が上昇し庶民の生活が圧迫された。
天保の改革以降も、表面化してきた反幕府運動が社会不安を激化し、影響は東海道通行の減少に表れた。長州征伐(1863)以降に全国で争乱が拡大したことで東海道には多数の軍馬が往来することになり、参勤交代の大名行列や伊勢参りなどの庶民の旅行が姿を消し、東海道の旅人を最大の顧客としていた有松の経済に打撃を与えてしまう。西南戦争(1877年)が終戦し平和が回復しても、東海道の通行は回復せず、有松は著しく衰退した。
また、開港以来の経済変動で全国的な物価も高騰。有松絞の販路を狭める大きな要因となったほか、庶民の経済生活も激しい物価の値上がりに圧迫され、購買力が衰退した。
さらには、幕末以降凶作に苦しむ領民の生活扶助の一つとして有松絞りの独占権も解除されたため、名古屋・鳴海・大高方面に絞商(対抗勢力)が出現し、有松の減退に拍車をかけた。
有松絞りの立場は困窮し衰微して仕事が減少したうえに、物価騰貴や販売不振等が追い打ちとなり生計に支障をきたすほどとなった。かつて有力な絞商と目されていた家でさえこの変動期に完全に没落した家が数軒出てしまったほどである。

【▲第3の隆盛期】 1877~1899年
1867年、江戸-大阪間を結ぶ蒸気船の定期航路が開設された。また、明治時代初頭の国鉄東海道線の開通によって航路・陸路が整備され、東海道を歩行する旅客は姿を消した。絞商は店頭での販売を廃して、各地に新しく販路を開拓し純然たる卸問屋に変貌していくこととなる。
西南戦争以降は好景気を迎え、鈴木金蔵の新筋絞や竹田林三郎の養老絞の考案が有松絞再興の基礎となった。その後、不換紙幣整理による不景気があり生産量は一旦激減したが、経済が安定してくると有松の再興は不動のものとなる。
1889年 国鉄東海道線が全通し、卸商品の大半を名古屋駅・大高駅で貨物運送に出すようになった頃には、鈴木・竹田、両先覚者の活躍に刺激された有松の業者の間で積極的に発展をはかろうとする機運が生まれる。日清戦争(1895~1896年)後は、販路の拡充や新しい技法の開発などの努力が実り、生産量も増加、かつての行政上の特権は失われたが、新技法の開発と共に特許の取得も行われ、これらの特許に守られて有松絞りは全盛期を迎えることとなり、旧時代の繁栄をはるかに凌ぐ隆盛を極めることができた。

【▼第3の衰退期】 1904~1905年
第3の減退期は、日露戦争(1904~1905年)の影響である。日露戦争最中の著しい経済不振により、産額は半減した。

【▲第4の隆盛期】1915~1925年
第一次世界大戦により欧州の戦乱の漁夫の利を得て大正バブルがはじまる。有松もその好景気に乗って、著しく産額を増した。
熱田神宮前-笠寺間のみであった愛知電気鉄道が、1915年5月に笠寺-鳴海町有松裏間まで区間を広げ、有松町の交通運輸は飛躍的に発展する。これにより、経済が活発となり大いに繁栄を享受したのだ。
これが最後の隆盛期となるが、戦後も、大正9年頃までは有松の景気は良く、社会一般に絞模様が流行したことにより最大の黄金期を迎えることになった。

伝建地区を歩く 有松(2)

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【▲第1の隆盛期】 1688~1704年
1695年、貨幣の改鋳によるインフレにより元禄文化が花開く。華やかな時代の風潮に乗り、一般庶民も経済的に発展したことで、有松絞りも最初の隆盛期を迎える。

【▼第1の衰退期】 1784年
全国で推定2万人の餓死者があったといわれる天明の大飢饉のさなかに有松で火災が発生。ほぼ全村が焼失し灰になる災害に見舞われた。住民は家屋を焼かれて商品も失い食事も出来ず困窮することになり、有松最初の衰退期を迎えた。

【▲第2の隆盛期】 1804~1829年
1784年に起きた火災から復興。20年という歳月はかかったが、寛政の改革(1788年)以降には壮大な商家が建ちならびみごと回復した。また、この復興をきっかけに勤勉さをとりもどし有松絞りの技術が向上。有松絞りの美がいっそう高まることとなった。
寛政の改革以降三十数年は平和な時代が続き、江戸を中心に町人文化が華やかに。庶民生活は豊かに発展し、世情に投合して繁栄の極に達した。1781年以降、尾張藩の保護によって与えられていた有松の絞り染め営業独占権も他地方の新規同職の禁止等が強化され、第2の隆盛期を迎えることとなる。

有松写真2

伝建地区を歩く 有松(1)

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有松の街 絵
こんにちは。
皆さんは伝統的建造物群保存地区というものはご存知でしょうか。
昭和50年の文化財保護法の改正によって、伝統的建造物群保存地区の制度が発足し、城下町、宿場町、門前町など全国各地に残る歴史的な集落・町並みの保存が図られるようになりました。
平成29年12月現在、現在重要伝統的建造物群保存地区は97市町村で117地区、約28,000件の伝統的建造物及び環境物件が特定され保護されています。

私、株式会社アオキ建築の代表取締役の青木隆明は、現在、伝統的建造物群保存地区について調べております。
平成29年度時点での登録地区114ヶ所はすべて実際に訪れて写真撮影や付近の散策を行い、各地区の研究をさせていただいていることから、是非ご紹介させて頂きたいと思います。
今回題材としている「有松」は、名古屋市内の西部、緑区にある歴史的な街です。「有松絞り」の街として、伝統的建造物群保存地区の中でもよく知られています。ここでは、有松の時代背景をご紹介し、時代の流れとともに少し違う視点で有松の街を歩き、歴史を歩きたいと思います。
有松の時代の流れを調べてみると、まず、隆盛の時期が4つ、衰退の時期が4つあることに気がつきました。まずはそこへたどり着くまでの有松の成り立ちからご紹介させていただきます。
ご存知の通り有松は、池鯉鮒(ちりゅう)宿と鳴海宿とのあいだにできた間宿(あいだのしゅく)で、江戸時代に五街道を整備した際、その一つである東海道に伝馬制の宿場制度を定めて東海道五十三次が配置されたことから生まれました。
1608年には尾州藩によって開発が進み、同年12月 譜役免除(現在でいう免税)の特典を与えることで移住を奨励されています。
第1陣として、長五郎・九左衛門・九兵衛・勘次・弥七・庄九郎・新助・治郎作の八名が移住、その後1613年に五郎左衛門をはじめとする第2陣が七名移住しましたが、周囲の耕地も乏しく、農業で生計を立てるまでには到らなかったものと考えられます。
第一陣が来村してから十数年後には、何とか飢えることなく十五家族の生活に見通しが立つようになったため、1625年、第3陣となる兵左衛門をはじめとした十四名が呼び寄せられ、合計二十九家族が有松での移住生活を始め、新村としての有松が始まったのです。
当初はやはり村の生活は苦しかったと思われます。第1陣の一人である竹田庄九郎が名古屋城の築城のために訪れた九州の人々の衣装から絞り染めのヒントを得て、それを応用した手ぬぐいを土産として売るようになったと言われていますが、鳴海宿までの距離も近く、人通りも少なかったようで、思うほどの効果はなかったようです。しかし、参勤交代が制度化された1635年以降には、東海道に町人が数多く通りはじめ、村の生活も徐々によくなっていったと思われます。
その後、寛永の大飢饉や慶安武蔵地震等社会的に不安定な時期ののち、有松の一番の転機になったのが1655年、豊後の人 三浦氏の移住です。この三浦氏の妻により、豊後絞りの技法の指導が行われたことで有松絞りの質が向上され、有松は大きな進歩を遂げたのです。
次回はこれ以降の有松について、歴史上にそれぞれ4つずつある「隆盛期」と「衰退期」に着目しながら詳しく見ていきます。
有松写真1
(写真説明)町中を焼き尽くした大火の教訓からウダツと蔵造りの蔵により防火対策された街並み