伝建地区を歩く 函館(3)

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また、江戸時代後期から明治時代にかけての本州での大飢饉や地震等の災害、不況などにあまり影響を受けなかったため、飢饉時には本州の東北地方からの移住者や出稼ぎ者が箱館に向かいました。江戸時代の箱館は入民が規制されていたため、そこまでの人口増加はなかったものの、明治時代に入りその規制がなくなってからは、人口が急激に増加。しかし、その人口増加により多くの大火が発生することになります。

1779年は400戸のうち1/4となる100戸が焼失しました。1806年に起こった大火では、内潤町(現在の元町末広町)も延焼し、番所・高札場・交代屋敷・官庫・板倉それに民家などを含め約350戸を焼いたそうです。
1866年にも内潤町から出火が続き、明治元年から大正10年までの54年間で、焼失戸数100戸以上の大火回数は25回、約2年に1回は大火に襲われていたことになります。

特に、1878年(明治11年)と1879年(明治12年)に起こった大火では、復興のための市区改正事業により街並みの大改造や建物の防火性の向上などが行われ、幅員20間(約36メートル)の防火線街路として二十間坂と基坂を拡幅し、幅員6間や12間の街路が直通して矩形の街路が誕生しました。
また、1907年(明治40年)、1921年(大正10年)大火後の復興では、1階が和風建築で2階が洋風建築の和洋折衷建築が多く建てられ、現在の洋風、古風建笙物が存在する元町末広町附近の独特な街並みが造られました。
このように、たびたび見舞われた大火により、都市計画や防火性の高い建物構造などが見直され、函館の市街地の構造は根底から変わることになったのです。

こうしてみると、函館は、本州の飢餓や景気には左右されず、独自の経済発展を遂げてきましたが、やはり各伝統的建造物群保存地区同様、1868年 箱館戦争や、第2次世界大戦といった戦争の波には勝てず、一時は景気がひどく冷え込みました。

しかし、昭和32年(1957年)「習慣読売」誌の「新日本百景」全国第1位に選ばれ、観光客が増加。夜景では香港・ナポリなどとともに世界3大夜景と言われています。現在では年間524万人を超す観光客が訪れる観光都市として変貌しました。元町末広町においても、「函館発祥の地」として、函館が最も著しい繁栄を遂げた時代に形成された、異国情緒豊かな街並み景観が概ねそのままの形で継承されており、観光地としても見ごたえのある場所として、毎年多くの観光客が訪れています。伝統的建造物群保存地区の発展・保存の貴重な成功例として、今後のますますの発展を願っています。

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伝建築地区を歩く 函館(2)

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この頃の船の近代化の歴史を見ると、弁才船(500石以下)→千石船(1000石以上)→千石船(1400石以上)→洋式船(帆船)→汽船→蒸気船というようにどんどん大型化が進みます。

江戸時代前中期は、千石船(1000石以上)が主流で、北海道では商港として、「松前」「江差」「箱館」の三港を開港していました。本州諸港との交通は、太平洋と比較して日本海の方が穏やかで西回り航路が人気だったため、一番多くの商人が集まり活気があった港は「松前」でした。東回り航路の「箱館」は、大阪との結びつきが強く、コンブ等の水産物の貿易で発展はしていましたが、三港のうちでは最下位の港だったようです。

しかし江戸時代後期になると、千石船(1400石以上)、洋式船(帆船)、汽船、蒸気船が登場し、水深が深い港が好まれるようになったため、もともと火山の火口で水深が深い港であった「箱館」は、船の大型化とともに、貿易港として、商業地としての発展が目覚ましくなっていきました。

また、開国による諸外国文化の流入も、幕末期の箱館に大きな変化をもたらしています。

安政元年(1854年),日米和親条約の締結により,江戸幕府は箱館と下田の開港を決定し,乗組員の休養や物資の補給地として、外国船も箱館港に盛んに入港し始めるようになりました。
その後,米,蘭,露,英,仏の欧米5カ国と修好通商条約が締結され,安政6年(1859年)に,箱館は長崎,横浜とともにわが国最初の対外貿易港として開港します。この影響により,領事館が新築されたり,キリスト教会が建てられるなど,異国情緒豊かな街並みが形成されていきました。

外国との交易港として開港されたことによって近代化が進むのも早く、造船や蒸気機械がいち早く導入されました。これにより、木材の製材や鉱山等の開発も進み、北海道の内陸部へつながる鉄道ができたことで、北海道内陸部の生産品や物資も箱館港で貿易できるようになったため、箱館はますます発展し、明治以降は,開拓使函館支庁が置かれるなど、北海道の政治,経済,文化の中心地として栄えるようになりました。

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伝建地区を歩く 函館(1)

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 伝統的建造物群保存地区について、平成30年度時点での登録地区は全117ヶ所となっています。
伝建地区をご紹介して2回目となる今回は、函館市にある「元町末広町」をぶらり旅したいと思います。

 函館は古くから天然の良港として知られ、海産物交易の集散地として栄えてきました。
そこで、今回は函館の歴史や経済の流れを辿りながら、元町末広町の街並みや建物の特徴についてご紹介いたします。

 1989年4月21日に伝統的建造物群保存地区として登録された元町末広町は、南西側に函館山、北東側に函館港がある、山と海に囲まれた地域です。歴史的文献によると、1802年 埋立により「内潤町」という町が登場。この内潤町が現在の元町末広町のルーツとなっており、江戸時代後期(1964年)に五稜郭が完成すると、現在の町名のもととなる「元町」の町名が登場します。「函館発祥の地」として、函館が最も繁栄した明治末期、大正、昭和初期に建築された和風・洋風さらには和洋折衷様式の建築物が多く残されており、これらが坂道、街路などと融合しながら特徴ある街並み景観を形成しています。
では、この独特な街並みはどのようにして造られていったのでしょうか。
 文献を見ていくと、函館の歴史は、船の近代化と大火がキーポイントであったといえます。
函館(以下箱館)では、古くから北海道に住む「アイヌ」と呼ばれる人々が、漁労・狩猟、交易などで生活していましたが、室町時代に蝦夷ヶ島(現在の北海道南部)から和人が進出し、12あった和人の城館でアイヌとの交易を始めました。また、この「道南十二館」と呼ばれる12の拠城館を拠点として和人によるアイヌの領域支配も進んだため、 1457年 アイヌの大首長コシャマインが不平等な交易・圧迫に不満を申し立てて蜂起します。この乱により箱館はゴーストタウン化し、地の境として隣の亀田村が繁栄しましたが、亀田の港は亀田川河口にあり砂や泥が流入して港を埋めてしまうため、船の大型化が進むにつれて、大船は箱館の港に入るようになり、住民も次第に箱館へ移っていったようです。
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