伝建地区を歩く 弘前(5)

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■太平洋戦争
昭和恐慌そして、昭和の農村恐慌から太平洋戦争へ向かい、日本は敗戦へと突き進む。
しかし、弘前市は第八師団という軍事施設があったにも関わらず、幸運なことに中心街が空襲されなかった。
終戦後は、人口自然増の流れの中で、1955年(昭和30年)3月1日、弘前市と中津軽郡の11ヶ村が合併。人口は約2倍になったが、車社会が進むにつれ、郊外に大型スーパーが次々と進出。商店街中心の都市構造を大きく変え、弘前市の商店街は著しく衰退した。車社会という大きな社会構造の変化の流れは止めることができず、弘前市も大きく衰退することとなった。

このように、「軍事」をキーワードに弘前の歴史を追うと、「軍事」と「戦争」が弘前市の発展に大きく関係していたようにみえました。
また、このように軍都であった弘前市仲町という地区が、当時のまま現存していられるのは、色々な偶然がもたらした奇跡であると言えるのではないでしょうか。
例えば、軍都である弘前に戦火による建物群の消失がなかったこと。また、鉄道が開通した頃、弘前駅の開業に関して市民が消極的であり、弘前駅が市街地から離れて造られたこと。そのことで、弘前城や、その北側に位置する仲町が、街の開発の波に呑み込まれずに済んだこと。現在の仲町が、当時と変わらない武家屋敷の旧姿を現代に伝えられているのも、このように市街地発展から外れる要因が重なっていたからだと思います。また、その町並みが構成されたのも、「飢餓」による帰農政策の制定・廃止によるものでした。

どの伝統的建造物群保存地区も、様々な偶然の積み重ねにより、発展から取り残され、阻害されたことにより現存している奇跡なのだと思いますが、今回の仲町は、「飢餓」と「軍事」が作り上げたその奇跡で、このことを再度認識させてくれる地区でありました。
 
実は、この伝統的建造物群保存地区 弘前市仲町を一昨年訪れた際には、まだ弘前の歴史的背景に関しての知識が浅く、しっかり見ることができなかったのですが、この文章を作成後、改めてこの弘前市仲町を訪れてみたいと切に思いました。

以上、乱文ですが、お付き合いいただきありがとうございました。

伝建地区を歩く 弘前(4) 

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では、二つ目のキーワードの「軍事」に触れていきましょう。

「軍事」に関しては、関ヶ原の戦い、明治維新前後、太平洋戦争までの3つのポイントがあります。

■関ヶ原の戦い
先にも触れましたが、弘前藩は徳川家康の西軍に着くことにより、戦後、上州大館領の二千石を加増され、家格4万7千石となった。これにより、近世大名として、1603年(慶長8年)に津軽藩(弘前藩)として高岡城下町(弘前城)をつくることができ、五大飢餓があったものの城下町の発展に支障はなかったと思われる。

■明治維新
明治維新前後(1797年~1821年)は、蝦夷地警備が大きな財政的負担となっていく。
この警備は28年間行われ、藩財政の困窮は民衆や百姓への大きな負担となり、藩士や領民は、経済的・肉体的に過大な負担を負うこととなった。具体的には、郷夫として蝦夷地警備に動員された出兵総数の大半を百姓が占めていたため、労働力不足となり、農耕に直接影響を与えており、開発と蝦夷地警備は相乗的に農村を疲弊させていった。
しかし、1797年(寛政9年)11月、山田剛太郎ら295人が箱館(函館)を警備した恩賞として、1805年(文化2年)に津軽藩は七万石に昇格、1808年(文化5年)には家格十万石に昇進することができている。
1855年(安政2年)には、アメリカ国使との開国交渉がまとまり、箱館を開港することになったため、津軽藩(弘前藩)に対して、幕府より蝦夷地警衛再開の命令が下り、箱館に本陣屋を構えることになった。この警備は徳川幕府が崩壊するまで13年間続いた。
1868年(慶応4年)になり、奥羽両国(東北地方)が薩長の新政府の態度に反発、東北の諸藩25藩の代表が集り、同盟を結成した。その後、北越六藩も参加し、奥羽越列同盟となり、新政府軍である薩長軍に対処することになったが、新政府軍の勢いが優勢だったため、秋田・津軽は素早く転身して新政府軍に加勢し、青森県の礎を築くことになった。また、奥羽戦争・箱館戦争においても新政府軍に加勢したので、弘前市域は戦場にはならなかった。
1869年(明治11年)になると、版籍奉還によって大名はすべて消滅したが、藩という名の行政機関は残った。
明治に入っても、青森県で最大の都市は弘前であったので、1871年(明治4年)に弘前県が誕生したが、青森県の初代知事が青森市に県庁を移したことにより、弘前県は青森県と改称された。県庁を青森に奪われた弘前は、その後人口の流出が続き、特別の産業もないまま急速に衰退。最盛期には年間39,000人を数えた人口が、1889年(明治22年)には31,000人と、8,000人の人口減少に見舞われ、大きな危機感を持つようになり、城下町弘前の住民生活も大きく転換点を向かえることになった。

1894年(明治27年)には弘前から青森まで鉄道が開通。
1895年(明治29年)に軍備拡張の必要性から増設された6個師団の一つ、八師団軍が、弘前の都市に多大なる経済発展をもたらし、新たな商都・軍都としての弘前が始まる。
産業の発達を刺激し、また、商業地域も影響して市街地の変貌をもたらした。その後、軍事施設や公共的建物等が次々に建てられ、「軍都弘前」が誕生していく。
その結果、弘前市の人口は増加。弘前の経済的発展は昭和恐慌の前まで続くことになった。
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伝建地区を歩く 弘前(3)

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では、この五大飢餓で弘前に何が起こったのか、文献に沿って見ていきましょう。

■元和飢餓(1615~1616年)
お城周辺に餓死者が散乱し、城下町が空き家ばかりになった。

■元禄飢餓(1692~1696年)
津軽領内で大量に餓死者が発生し、10万人の領民が亡くなり、疫死者と合わせて弘前藩の1/3の領民が亡くなった。藩の財政面が苦しくなり、藩士全体の55%、1000人の藩士を解雇したので、城下町の侍屋敷には大量の空き家が発生した。

■天明飢餓(1783~1787年)
弘前藩では8万人超え、弘前城下では4496人の餓死者が出て、農民の1/3が死亡した。この天明の飢餓では、「理性を失い、犬・猫・牛・馬・家畜類を食い、親を殺し人をも食べた」という内容も文献に残されており、相当にひどい飢餓だったことが窺える。
この飢餓で、田畑の荒廃化が進んだため、九代藩主寧親は帰農土着令を出して、藩士とその家族を農村に居住させ、農作業に従事させる。農村への移住の完了までは1年かかり、その数あわせて3156戸にのぼったと伝わっている。
この政策が功を奏してか、天明飢餓で激減した農民が徐々に増え始め、1797年(寛政9年)には、30年前に比べて約3倍にまで増加したため、1798年(寛政10年)には、藩による帰農政策は廃止。藩士を城下へ帰住させることが決まり、町の風景が急激に変わっていった。
農村から城下町侍町への移住は、混乱を避けるために2年に分けられ、1799年(寛政11年)までかかった。また、移住者の増加により、帰農政策前よりも、屋敷の間口は小さくなり、建築面積も狭くなった。現在、伝統的建造物群保存地区にある多くの武家屋敷は、この寛政11年~12年に建てられた武家屋敷である。
武家屋敷として、この時新築された件数は、3150軒。8年ぶりに武家屋敷が再度誕生し、景気とともに活気ある城下町が再生した。1627年(寛永4年)に焼失していた高岡城の天守閣も、1811年(文化8年)には、再建することができている。

■天保飢餓(1832~1839年)
餓死者は約3万6千人。10年間も慢性的な飢渇が続き、津軽の四大飢渇のひとつとなる。領内は再び空き家が増え、文献には、隣の家の空き家を壊して薪にしたとも書かれている。この飢饉では、天明飢餓の教訓が生かされ、備蓄もあったため、天明飢餓よりも長い飢饉だったが、餓死者が少なく済んだ。

以上が、一つ目のキーワード「飢餓」の大まかな流れですが、帰農政策の制定・廃止により、町並みに大きな変化があったことが分かりました。
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伝建地区を歩く 弘前(2)

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歴史的文献によると、仲町の原形は、高岡城完成時の初期の町割りですでに出来上がっていたようですが、この頃はまだ歴史的文献で触れられることはなく、「高岡」から「弘前」に改称されたのちに、仲町の一部が平地に形成されたとの記載を見つけることができました。
また、1646年(正保3年)の津軽弘前城の絵図によると、城北は足軽町・歩ノ者町・小人町・禰宜町および町屋に町割りされており、1648年(慶安元年)に津軽藩が幕府に提出した文献にも、足軽町、歩ノ者町という記載があります。
その後、藩士土着令による藩士の移動と土着令廃止による移動で、比較的身分の高い藩士も城下町に武家屋敷を持つようになり、足軽町、歩ノ者町あたりは、城郭外の侍町「若党町」となりました。その後、弘前城の北側、現在の若党町・馬喰町・小人町の辺りは「仲町」と総称され、御家中屋敷と呼ばれるようになり、今でも武家屋敷の旧姿を現代に伝えています。

さて、仲町の成り立ちがわかったところで、ここからは弘前の歴史にもう少し踏み込んで、その町並みや風景がどうできていったのかを紐解いていきたいと思います。

弘前の歴史を辿り、私が感じた重要な2つのキーワードは「飢餓」と「軍事」です。

「飢餓」に関して、津軽では、江戸時代の13世紀から19世紀かけて小氷河期に入っており、300年で47回もの凶作がありました。この凶作の中には、五大飢餓と言われる大凶作(元和飢餓、元禄飢餓、宝暦飢餓、天明飢餓、天保飢餓)も含まれており、何十万人の餓死者が発生したと言われています。
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伝建地区を歩く 弘前(1)

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伝統的建造物群保存地区について、現在、文化庁が選定している登録地区は全117ヶ所となっています。毎回ひとつの伝建地区をピックアップし、その歴史を辿る「伝健ぶらり旅」も、今回で3回目となりました。今回は、青森県弘前市にある伝建地区「仲町」をぶらり旅していきたいと思います。

弘前市 仲町は、1978年5月31日に伝統的建造物群保存地区として登録されました。弘前城の城下町北部に当たるのが現在の仲町で、当然ながら、この城下町の歴史は弘前城と密接な関係にあります。弘前城は、その名の通り、弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった場所です。まずはこの弘前城の歴史から仲町の成り立ちを見ていきましょう。

弘前藩は、1590年(天正18年)、津軽地方の統一を成し遂げ、津軽3郡(4万5千石)の領有を認められた初代藩主 津軽為信により、その礎が築かれました。さらに、1600年(慶長5年)には、関ヶ原の戦いに徳川家康方として参戦し、その功績によって2千石を加増されています。
1603年(慶長8年)には徳川幕府の成立とともに外様大名のひとりとして津軽領有を承認され、そのときに藩政の拠点となる築城の地として選ばれたのが、高岡、現在の弘前でした。
為信は高岡(現在の弘前)に新たな町割りを行い、次々と領地の開拓を進めて城の築城を計画するに至りますが、1607年(慶長12年)に病没。跡を継いだ2代藩主・信枚が1610年(慶長15年)から築城を開始しました。
翌年1611年(慶長16年)には五層の天守閣を構える平山城「高岡城(現在の弘前城)」が完成し、城下町の歴史も始まります。その後もさらに堤防などを築きながら成立した城下町は、1628年(寛永5年)に「高岡」から「弘前」へと改称し、近世都市として歩み始めます。
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