名古屋市にある古民家の耐震補強

株式会社アオキ建築は古民家の耐震補強を得意とする建築会社です。

TEL.052-382-4548

〒455-0066 愛知県名古屋市港区寛政町5丁目9番地

未分類

伝建地区を歩く 足助(5)

伝建タイトル
【▲隆盛期】明治時代初期(1868年~1883年)
明治時代になると人々の通行が自由になり、物資の輸送も盛んになる。
伊那街道はますます利用され、足助の町は繁栄の一途をたどった。
明治元年(1868年)、伊那県が設置されると、三河の中の伊那県管轄地を管轄する足助庁が、足助村の陣屋跡に置かれた。明治3年(1870年)に足助村が伊那県足助庁へ提出した文書では「足助町」が使われている。
明治3年(1870年)時点での借家率をみると、持家に住むものは全体の3分の1弱、残りの3分の2強は借家で、高い借家率であったことがわかる。商業の発展は労働者の増加をもたらし、居宅確保への需要が高まる中、有力商人が蓄積した資本を不動産に投入したことで貸家が増加していったのであろう。
近代明治期に入ると明治11年(1878年)に東加茂郡役所が設置されて、足助は西三河山間部の行政の中心となった。
町並に関する変化は、明治中期に始まった道路改修工事に関わる部分が大きい。運送方法が中馬による搬送から馬車へと変わり、急勾配で狭隘な旧街道が機能しなくなったためである。
江戸時代に足助から信濃へ送られた塩の量は不明であるが、明治期になると若干記録が残っている。
明治16年~23年に至る8年間に、合計13万7689表、年平均1万7201俵の塩が、平古を経由して足助へ入っている。

また、明治24年(1891年)10月から翌25年9月までの1年間に、伊保村(豊田市)に宿泊した旅客数を、行先別にみてみると、次のようになっている。
なお、伊保村は、県道飯田線の名古屋-足助間のちょうど中間にある村である。
足助町1582人、名古屋町1168人、熱田町 614人、瀬戸町334人、岡崎町2892人

【▼衰退期】 明治時代中期~後期
明治23年(1890年~) 恐慌
明治33年(1900年) 資本主義恐慌
明治35年(1902年)のJR中央線着工開始によって足助は大きな影響を受ける。
明治44年(1911年)に中央線全線が開通し、東京駅 – 塩尻駅間は東日本旅客鉄道(JR東日本)、塩尻駅 – 名古屋駅間は東海旅客鉄道(JR東海)の管轄となる。
足助が信州と三河を結ぶ流通ルートから外れると、物資輸送基地としての機能は衰退したが、その後も林業・養蚕業の流通市場や金融資本が集積し、東加茂郡の在郷町として歩み続け、郡の政治経済の中心地の役割を果たした。しかし、後述の太平洋戦争後はトヨタの工業化の影響を受け、大きな変動を経て今日に至る。

【▲隆盛期】昭和時代初期(1930年~1939年)
大正期の終わりから巴川河畔の遊歩道の整備が進んだ。昭和5年 (1930年) には巴川両岸に数千本のもみじを植樹、「香嵐渓」と命名され、香積寺付近の観光開発も進んだ。足助大橋の完成に伴い、県道飯田街道(旧伊那街道)は巴川左岸の現国道153号に付け替えられ、町並みは次第に主要交通路から外れる。この新道に接続する道路の整備が進んで、新町から田町の間では既存の町屋が立ち退くなどの町並の変化が生じたが、ただし主要交通路から離れることで、結果として町並は継承されることとなった。香嵐渓観楓は内外に宣伝され、昭和5年(1930年)からは連年大規模な観楓団体が訪れるようになり、名実ともに東海随一の観楓拠点となった。

【▼衰退期】太平洋戦争(1940年~)
太平洋戦争がはじまる。
戦時体制下では観光活動は禁止された。足助町においても、昭和15年(1940年)の物資割当制以後は旅館·飲食店などは次第に営業が窮屈になり、従業員も応召や徴用などで極度に不足し、ついに昭和19年(1944年)には揚屋組合は休業、翌年には解散、旅人宿組合も昭和20年( 1945年 ) 1月に解体した。かくて、香嵐渓の観光に訪れる人影は絶え、遊園地も荒れるに委される状態となり、観光ブームは、昭和16年( 1941 年) 12月8日の太平洋戦争突入によって閉息した。
戦後は高度経済成長期の開発から取り残され、人口の流出が進み、1970年には過疎地域に指定されるまでになった。

伝建地区を歩く 足助(4)

伝建タイトル
※以下「足助町の歴史」、「中馬の宿場足助の町並み」参照しています。
【▲隆盛期】 江戸時代初期~中期(1681年~1775年)
江戸時代の初期までは領主の交代がしばしばあったが、天和元年(1681年)、本多淡路守忠周が足助村に陣屋を置き7000石の交代寄合となった。
忠周は天和3年(1683年)に寺社奉行となったことから3000石の加増を受け、これにより合計1万石の大名として足助藩を立藩。
しかし貞享4年(1687年)、勤務怠慢から寺社奉行を免職され、2年後の元禄2年(1689年)には加増分の3000石を没収されて再び7000石の旗本寄合となったため、助藩は廃藩された。
元禄期(1688-1704年)になると、宿場的要素に加え、商業の中心地的要素が強まってきたため、在郷町としての景観を整えるようになる。「足助町」と呼ばれたり、私文書にも、「町」の名称が使われている。また、「御用商人」と呼ばれる大商人も出現した。
なお、旗本寄合本多氏は幕末まで存続し最後の当主は「本多忠陳」となる。実質的に町の形態をなしていた足助村を足助町に変えたものとも考えられ、元文5年(1740年)まで「足助町」の名前で年貢免定が出された。

安永4年(1775)に大火があり、足助川右岸の田町から新町までのほとんどが焼失した。

【▲隆盛期】江戸時代中期(1781年~1788年)
安永年間(1772-1781年)までは横ばいに近い軒数が、天明年間(1781-1788年)以後は急激な増加に転じる。一時的な落ち込みは見せるものの、安永以前からは15倍以上に増加する。
足助の商業的な発展が軒数の増加を招いたものと理解できる。

【▼衰退期】 江戸時代後期(1833年~1844年)
天保の大飢饉が起きる。
天保7年(1836年)、1万三千人余が参加して、三河最大級の百姓一揆ともいわれる「加茂一揆」が九久平(豊田市)周辺で起きているが、この一揆が最初の攻撃目標としていたのは、足助の大商人たちであった。足助村では、7名の商人が打ちこわしにあっている。

≪天保の大飢饉 詳細≫
天保7年は、全国的な大凶作で、米価は暴騰し、ことにこの地方のように山間地帯で、田に乏しい農民の困窮は甚だしかった。
一揆は、9月20日に始まった。
夜のうちに、松平村、九平村(現豊田市)など、加茂郡南部の村々の有志20名余りがひそかに集合し、米・酒などの安売り、頼母子の2年休会、領主に対する年金の卯相場の引き下げなどを要求事項として立ち上った。
 21日、夜から行動を起こし、まずは手はじめに滝脇村(豊田市)の庄屋を打ちこわして気勢をあげ、六所山・焙烙山を囲む村々(下山村・豊田市)の庄屋・米屋・酒屋などを打ちこわし、さらに各陣屋へ要求をつきつけて承認させ、次第に領主に対する反抗もあわらにしていった。
 一揆は勢力を増大しながら、23日の午後、足助の町へ入った。西町の酒造屋山田屋茂八宅・西町の穀物木市屋仁兵衛・本町紙屋鈴木利兵衛の空き家・本町酒屋上田屋喜左衛門宅・本町酒造家白木屋宗七を次々と打ちこわした。
一揆の激しさに驚いた本多陣屋役人が、一揆側の要求を全面的に受け入れ、その内容を高札にして張り出したので、さしもの一揆もようやくなくなり、鎮まることとなった。
 24日、夜明けに矢作川を川舟で渡り切り、3000余人が挙母城下へ押し寄せる。ところが、24日には、領主側の一揆対策がこれまでの消極策から強硬策へと変化したため、武力による領主側の反撃を受け、一揆側は不利な状況に追い込まれてしまった。
 
以上この一揆は、前後5日間にわたったもので参加者は、吉田・奥殿・挙母・岡崎・西尾の諸藩領と、15の旗本知行所ならびに幕府直轄地にわたる247ヶ所村の百姓で、11万人を超えた。
処刑された者は、主謀者の獄門をはじめ遠島・追放から過料まで含めると、総勢1万1,457人にのぼった。
DSC04233 

伝建地区を歩く 足助(3)

伝建タイトル
では、日本の人口から見た足助宿の隆盛はどうだったのでしょう。
日本は、奈良時代から鎌倉時代までは急速な人口増加はなかったので、宿場町に関してもさほど発展はしていなかったと思われます。日本の人口が徐々に増え始めたのは室町時代の後期からで、これは入浜式塩田製塩の開発時期と重なります。想像の域を超えませんが、日本の人口の増加とともに製塩方法も進化していったのではないでしょうか。そして足助宿も、人口の増加、製塩技術の進歩とともに宿場町として、そして商家町としても形成され、発展していったのだと考えることができるのではないでしょうか。「敵に塩を送る」という故事のもとになっている、上杉謙信が仇敵 武田信玄へ塩を送ったという話もあるほど、人が生きていくうえで必ず必要とされる塩を中心とした物流だったので、人口の増加による影響は大きかったと考えられます。

以降の足助の歴史を辿ると、安永4年(1775年)の大火による町並み焼失からの再興や、明治時代の資本主義恐慌、中央線全線開通等の影響を受けての「塩の道」宿場町からの役割変化、観光による再復興等、やはりその時代時代での変化が町の在り方に大きな影響を与えていることが再認識できます。
また、再興の手段として近代化の選択をした有松とは違い、足助は地域の資産を有効に活用し、時代に寄り添って町の性質を柔軟に変化させていました。「香嵐渓」等観光開発による再復興も果たしましたが、最後は太平洋戦争による観光活動の禁止により戦後の人口流出に歯止めがきかず、現在は過疎地域に指定されています。再び、観光や景勝地として少しずつ持ち直してきているとはいえ、どの地域の問題でもある人口減少を食い止めることは難しいでしょう。足助には、昨年(2017年)訪れましたが、豊田市と合併したことにより、伝統的建造物群保存地区内の建物保全活動に活発に取り組んでいるような印象を受けました。地域の観光資源を有効活用し、歴史的価値の高い重要な街並みをこのまま保全していただけるよう願っています。

伝建地区を歩く 足助(2)

伝建タイトル
では、東山道と東海道をつなぐ「塩の道」についても、もう少し詳しく触れたいと思います。
日本では岩塩がもともと少なく、内陸部は海水から塩を製塩するしかありませんでした。「塩の道」は海から内陸部へ塩や海鮮物を運ぶ重要な道だったのです。
そのひとつである、信濃へ塩を運んだ道には、日本海側からと太平洋側からの2つのルートが存在しました。日本海で製塩された塩(北塩)を、千国街道を通って塩尻まで運ぶ「北塩ルート」と、太平洋で製塩された塩(南塩)を塩尻まで運ぶ「南塩ルート」です。南塩ルートには、秋葉街道を通って塩尻まで行く道と、先にご紹介した足助街道と三州街道(伊那街道とも言われる)を行く道がありました。
距離的に考えると北塩ルートのほうが近いのですが冬場等は天候が問題となり、また、南塩ルートはどちらの街道にも厳しい関所などがなく利用しやすい道であったため、多くが南塩ルートから運ばれていたようです。そして、三河湾の吉良で製塩→船で東海道 岡崎宿へ→足助街道・三州街道(足助宿経由)→信濃塩尻、という東海道が起点となる経路で運ばれていた伊那街道も、前述した東海道の発展とともににぎわいを見せていったのではないでしょうか。

また、塩の製塩技術も、弥生時代→直煮製塩、奈良時代→藻塩焼製塩、室町時代→揚浜式塩田製塩、江戸時代→入浜式塩田製塩 と、時代とともに進化していきました。室町時代の揚浜式塩田製塩までは、塩の道としての流通量はさほど増減はないと思われますが、室町時代後期に開発された入浜式塩田製塩では、遠浅での潮の満ち引きを利用してより多くの塩が製造できるようになったため、流通量の増加とともに塩の道も発展していったと思われます。南塩ルートの通り道である足助宿ももちろん例外ではなく、入浜式塩田製法の開発も足助宿の流通拡大に一役買っていたと想像できます。
DSC04227

伝建地区を歩く 足助(1)

伝建タイトル
伝統的建造物群保存地区について、平成29年度時点での登録地区は全114ヶ所となっています。今回はその中から、豊田市にある「足助」をピックアップしました。

2011年6月20日に伝統的建造物群保存地区として登録された足助ですが、現在のところ足助の起源に関する正確な詳細は不明です。今回は「塩の道」に注目し、私なりの解釈も交えながら大まかな起源を推測していきたいと思います。

時はさかのぼること7世紀後半。律令国家の広域行政区画である五畿七道の原型が出来上がったと言われています。五畿は山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内の5ヵ国をさし,七道は東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道をさしますが、この七道の内、東山道と東海道を南北につなぐ街道を「塩の道」と呼びました。塩の道はかつて各地に数多く存在しましたが、足助街道と三州街道からなるこの塩の道は、南塩ルートと言われ、太平洋側から信濃へ塩を運ぶ道としてとして栄えました。この足助街道と三州街道の中継地としてにぎわいを見せた宿場町が今回ご紹介する「足助」のルーツ、「足助宿」です。足助宿は景気の変動にあまり左右されなかったようで、その背景には、ひとが生きるうえで必ず必要とされる「塩」が寄与していたと考えられます。

足助宿の発展を考えるにあたり、まずは東山道と東海道の歴史から見ていきましょう。東山道は現在の中山道のルーツで、日本有数の山岳地帯を通るため難所も多く、冬は雪に埋もれてしまう道でもありました。しかし、大きな河川がなく川止めの困難を避ける利点もあり、平安時代中頃(10世紀頃)までは、東山道が安全な道として好んで選ばれていたようです。その後、河川に架ける橋を作る技術力が向上するとともに、温暖な太平洋側を進む東海道が良く使われるようになり、江戸時代以降には日本の街道の代表格ともいえるまでに発展していきました。
DSC04213

伝建地区を歩く 有松(4)

伝建タイトル

【▼第4の衰退期】1926~1945年
第一次世界大戦後は恐慌が続く。戦後恐慌から始まり、震災恐慌(関東大震災)、昭和に入ってもなお、金融恐慌、昭和恐慌、世界恐慌と続き、その後の第二次世界大戦(太平洋戦争)へ繋がる最大の衰退期へと突入した。
昭和初年の経済不況の際、政府は有松に根本的な対策を取るよう要請し、有松はあらゆる手を尽くして不況の克服につとめたが戦争が始まってしまう。
戦時統制が始まると軍需生産以外の産業は存続できなくなり、多くの恐慌で慢性的な不景気が経済を支配することとなる。購買力の減退、商品売行も減少し、1930年 世界恐慌では衰退にますます拍車がかかった。不景気がますます深刻化していく中、1931年には満州事変が勃発。1932年の有松絞りの産額は、25万反余といういままでにない最少額となってしまう。
なんとか一旦盛り返すものの、1937年には日華事変が始まって急激に戦時体制が強化され、全産業は戦時統制下となる。町政も戦争の影響で国家の軍事的政策の忠実な執行機関としての役割を担っていた。
さらに、1938年3月になると綿糸配給統制規則が出され、有松町に大きな打撃を与えた。「国内の綿糸の生産加工を禁止しその業は停止」という綿糸配給統制規則が施行され、綿製品の製造販売加工に関する制限規則が実施されたため、輸出向や綿糸・綿織物など製造および小売の販売が全面的に禁止されることとなる。これにより有松絞商工同業組合はとうとう解散となり、絞業者の大半は廃業。有松町は、戦争のために重要な経済の基礎を失ったのだ。
1945年8月 終戦。新しい日本の再建は敗戦後の厳しい現実のなかで始められた。終戦後も繊維はまだ逼迫した状態にあり国家統制がいっそう強化されていたため有松絞りは壊滅状態に追い込まれた。それに伴い有松町も勢いを失い、戦争が有松町に与えた影響は大きなものとなった。

以上が、隆盛期と衰退期から見た有松町です。
このように時代の流れに翻弄され、壊滅まで追い込まれてしまった有松絞りですが、統制が解除されると復興し、社会にゆとりが生まれると共に生産量も増加しました。しかし、昭和の中頃を過ぎると着物離れや安い中国製の製品との競争、後継者不足等、別の問題から生産量が減少した為、問屋業から小売業への転換や廃業が相次ぎましたが、問屋業から小売業への転換は非常に困難を極めたようです。現在ではかつて100種類を越えた技法も大きく数を減じていますが、一方で、1975年には愛知県内で初めての伝統工芸品に指定された他、国際絞り会議の開催と「ワールド絞りネットワーク」の設立、新素材を用いた製品の開発や国外の見本市への出品など有松・鳴海絞り振興のための取り組みも行われています。このように、経済、戦争、交通、技術革新に対応しながら時代を乗り越えてきた有松町の歴史からは、その柔軟さ、あきらめない精神など見習う面が多々あるのではないでしょうか。また、第4次革命(情報革命)と叫ばれる現代においても参考にすべき生き方があるような気がします。

最後になりますが、名古屋市では1990年12月に「有松土地区画整備事業」が決定しており、名鉄有松駅南7haのエリアで道路整備等による土地区画整理計画が進められました。町の発展や生活の利便性を優先するか、古き良き町並みを残していくかは難しい問題だとは思いますが、この事業の確定以降、平成景気と相まって有松が再び発展したにも関わらず、この区画では伝統的建物の急激な減少が見られました。悲しいことですが、町の発展と伝統的建物減少が相関関係にあるのは事実です。この現実をどうにかして調和させていくことが今後の伝統的建造物群保存地区に対しての課題なのだと思います。また、それぞれの時代背景に合わせて隆盛期ごとに建てられた伝統的建物を時代分布してみるというのも非常に興味深いのではないかと感じました。

今回は1935年に出版された有松町史やその他色々な文献を読み、有松の歴史の流れを読み解いてみました。ご指摘箇所も多々あると思いますが何卒ご容赦ください。少し雑駁とした内容になってしまいましたが、お付き合いいただきありがとうございました。

有松写真3
(写真説明)毎年6月に開催されている「有松絞りまつり」で賑わう街道筋の店先

伝建地区を歩く 有松(3)

伝建タイトル

【▼第2の衰退期】1833~1876年
1833年に起こった天保の大飢饉から幕末、西南戦争までは、有松の第2の衰退期となる。
天保の改革で厳しい倹約令が出たことで、絹布絞は大打撃を受ける。その後、天保の改革は失敗し倹約令も解除されたが、外国船の渡来・開港に人心が動揺、著しく物価が上昇し庶民の生活が圧迫された。
天保の改革以降も、表面化してきた反幕府運動が社会不安を激化し、影響は東海道通行の減少に表れた。長州征伐(1863)以降に全国で争乱が拡大したことで東海道には多数の軍馬が往来することになり、参勤交代の大名行列や伊勢参りなどの庶民の旅行が姿を消し、東海道の旅人を最大の顧客としていた有松の経済に打撃を与えてしまう。西南戦争(1877年)が終戦し平和が回復しても、東海道の通行は回復せず、有松は著しく衰退した。
また、開港以来の経済変動で全国的な物価も高騰。有松絞の販路を狭める大きな要因となったほか、庶民の経済生活も激しい物価の値上がりに圧迫され、購買力が衰退した。
さらには、幕末以降凶作に苦しむ領民の生活扶助の一つとして有松絞りの独占権も解除されたため、名古屋・鳴海・大高方面に絞商(対抗勢力)が出現し、有松の減退に拍車をかけた。
有松絞りの立場は困窮し衰微して仕事が減少したうえに、物価騰貴や販売不振等が追い打ちとなり生計に支障をきたすほどとなった。かつて有力な絞商と目されていた家でさえこの変動期に完全に没落した家が数軒出てしまったほどである。

【▲第3の隆盛期】 1877~1899年
1867年、江戸-大阪間を結ぶ蒸気船の定期航路が開設された。また、明治時代初頭の国鉄東海道線の開通によって航路・陸路が整備され、東海道を歩行する旅客は姿を消した。絞商は店頭での販売を廃して、各地に新しく販路を開拓し純然たる卸問屋に変貌していくこととなる。
西南戦争以降は好景気を迎え、鈴木金蔵の新筋絞や竹田林三郎の養老絞の考案が有松絞再興の基礎となった。その後、不換紙幣整理による不景気があり生産量は一旦激減したが、経済が安定してくると有松の再興は不動のものとなる。
1889年 国鉄東海道線が全通し、卸商品の大半を名古屋駅・大高駅で貨物運送に出すようになった頃には、鈴木・竹田、両先覚者の活躍に刺激された有松の業者の間で積極的に発展をはかろうとする機運が生まれる。日清戦争(1895~1896年)後は、販路の拡充や新しい技法の開発などの努力が実り、生産量も増加、かつての行政上の特権は失われたが、新技法の開発と共に特許の取得も行われ、これらの特許に守られて有松絞りは全盛期を迎えることとなり、旧時代の繁栄をはるかに凌ぐ隆盛を極めることができた。

【▼第3の衰退期】 1904~1905年
第3の減退期は、日露戦争(1904~1905年)の影響である。日露戦争最中の著しい経済不振により、産額は半減した。

【▲第4の隆盛期】1915~1925年
第一次世界大戦により欧州の戦乱の漁夫の利を得て大正バブルがはじまる。有松もその好景気に乗って、著しく産額を増した。
熱田神宮前-笠寺間のみであった愛知電気鉄道が、1915年5月に笠寺-鳴海町有松裏間まで区間を広げ、有松町の交通運輸は飛躍的に発展する。これにより、経済が活発となり大いに繁栄を享受したのだ。
これが最後の隆盛期となるが、戦後も、大正9年頃までは有松の景気は良く、社会一般に絞模様が流行したことにより最大の黄金期を迎えることになった。

伝建地区を歩く 有松(2)

伝建タイトル

【▲第1の隆盛期】 1688~1704年
1695年、貨幣の改鋳によるインフレにより元禄文化が花開く。華やかな時代の風潮に乗り、一般庶民も経済的に発展したことで、有松絞りも最初の隆盛期を迎える。

【▼第1の衰退期】 1784年
全国で推定2万人の餓死者があったといわれる天明の大飢饉のさなかに有松で火災が発生。ほぼ全村が焼失し灰になる災害に見舞われた。住民は家屋を焼かれて商品も失い食事も出来ず困窮することになり、有松最初の衰退期を迎えた。

【▲第2の隆盛期】 1804~1829年
1784年に起きた火災から復興。20年という歳月はかかったが、寛政の改革(1788年)以降には壮大な商家が建ちならびみごと回復した。また、この復興をきっかけに勤勉さをとりもどし有松絞りの技術が向上。有松絞りの美がいっそう高まることとなった。
寛政の改革以降三十数年は平和な時代が続き、江戸を中心に町人文化が華やかに。庶民生活は豊かに発展し、世情に投合して繁栄の極に達した。1781年以降、尾張藩の保護によって与えられていた有松の絞り染め営業独占権も他地方の新規同職の禁止等が強化され、第2の隆盛期を迎えることとなる。

有松写真2

伝建地区を歩く 有松(1)

伝建タイトル
有松の街 絵
こんにちは。
皆さんは伝統的建造物群保存地区というものはご存知でしょうか。
昭和50年の文化財保護法の改正によって、伝統的建造物群保存地区の制度が発足し、城下町、宿場町、門前町など全国各地に残る歴史的な集落・町並みの保存が図られるようになりました。
平成29年12月現在、現在重要伝統的建造物群保存地区は97市町村で117地区、約28,000件の伝統的建造物及び環境物件が特定され保護されています。

私、株式会社アオキ建築の代表取締役の青木隆明は、現在、伝統的建造物群保存地区について調べております。
平成29年度時点での登録地区114ヶ所はすべて実際に訪れて写真撮影や付近の散策を行い、各地区の研究をさせていただいていることから、是非ご紹介させて頂きたいと思います。
今回題材としている「有松」は、名古屋市内の西部、緑区にある歴史的な街です。「有松絞り」の街として、伝統的建造物群保存地区の中でもよく知られています。ここでは、有松の時代背景をご紹介し、時代の流れとともに少し違う視点で有松の街を歩き、歴史を歩きたいと思います。
有松の時代の流れを調べてみると、まず、隆盛の時期が4つ、衰退の時期が4つあることに気がつきました。まずはそこへたどり着くまでの有松の成り立ちからご紹介させていただきます。
ご存知の通り有松は、池鯉鮒(ちりゅう)宿と鳴海宿とのあいだにできた間宿(あいだのしゅく)で、江戸時代に五街道を整備した際、その一つである東海道に伝馬制の宿場制度を定めて東海道五十三次が配置されたことから生まれました。
1608年には尾州藩によって開発が進み、同年12月 譜役免除(現在でいう免税)の特典を与えることで移住を奨励されています。
第1陣として、長五郎・九左衛門・九兵衛・勘次・弥七・庄九郎・新助・治郎作の八名が移住、その後1613年に五郎左衛門をはじめとする第2陣が七名移住しましたが、周囲の耕地も乏しく、農業で生計を立てるまでには到らなかったものと考えられます。
第一陣が来村してから十数年後には、何とか飢えることなく十五家族の生活に見通しが立つようになったため、1625年、第3陣となる兵左衛門をはじめとした十四名が呼び寄せられ、合計二十九家族が有松での移住生活を始め、新村としての有松が始まったのです。
当初はやはり村の生活は苦しかったと思われます。第1陣の一人である竹田庄九郎が名古屋城の築城のために訪れた九州の人々の衣装から絞り染めのヒントを得て、それを応用した手ぬぐいを土産として売るようになったと言われていますが、鳴海宿までの距離も近く、人通りも少なかったようで、思うほどの効果はなかったようです。しかし、参勤交代が制度化された1635年以降には、東海道に町人が数多く通りはじめ、村の生活も徐々によくなっていったと思われます。
その後、寛永の大飢饉や慶安武蔵地震等社会的に不安定な時期ののち、有松の一番の転機になったのが1655年、豊後の人 三浦氏の移住です。この三浦氏の妻により、豊後絞りの技法の指導が行われたことで有松絞りの質が向上され、有松は大きな進歩を遂げたのです。
次回はこれ以降の有松について、歴史上にそれぞれ4つずつある「隆盛期」と「衰退期」に着目しながら詳しく見ていきます。
有松写真1
(写真説明)町中を焼き尽くした大火の教訓からウダツと蔵造りの蔵により防火対策された街並み

名古屋およびその周辺の水害(3)

伊勢湾台風による名古屋の高潮災害
昭和34年9月22日,帝大平洋マリアナ付近に発生し、9月26日午後6時20分ごろ、925・5mbの最低気圧をもって紀伊半島南端潮岬の西寄りの地点に上陸し、その後時速70kmの高速をもって北々東に進行し、午後9時すぎ名古屋の西方約30kmの地点を通過し、本州中部を斜めに検断して日本海へぬけた。高潮偏差(気象潮)は、正午ごろすでに40cm程度あらわれており、気圧の低下に伴い増大し、夕刻から急激に増大して最低気圧に達してまもなく、午後9時35分に最大気象潮3.61mを記録した。
この台風がこのような異常な高潮を引きおこした最大の要因は、台風のコースにある一般に台風の中心から、進行方向に向かって右側では風向はほぼ進行方向であるが、これに進行速度が加わって高風速となる傾向があり、中心から数十キロメートルはなれたところに最大風速が生ずる。伊勢湾台風は、伊勢湾の長軸にほぼ平行に、かつ数十キロメートル西方へ寄った位置を進行し、しかも進行速度が70km/hという高速であったこと、また伊勢湾の形状が風向方向に幅が狭くなるⅤ字形をしていることが、湾奥に異常な高潮をおこした最大の原因である。また小潮ではあったが、干潮より満潮へむかう時刻であったことや、降雨による河川の増水も異常潮位を助けた。
名古屋港の埋立地高さはT.P.+1・5~3・5m程度であるから、最高潮位T.P.+3.89mに達する以前に、早いところでは午後8時30分ごろから浸水がはじまり、多量の海水は埋立地をのりこえて背後の低地帯へ流入した。また河川、運河を逆上した高潮は堤防を破壊し、側面からも陸地へ浸入した。