名古屋市にある古民家の耐震補強

株式会社アオキ建築は古民家の耐震補強を得意とする建築会社です。

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〒455-0066 愛知県名古屋市港区寛政町5丁目9番地

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伝建地区を歩く 函館(3)

伝建タイトル

また、江戸時代後期から明治時代にかけての本州での大飢饉や地震等の災害、不況などにあまり影響を受けなかったため、飢饉時には本州の東北地方からの移住者や出稼ぎ者が箱館に向かいました。江戸時代の箱館は入民が規制されていたため、そこまでの人口増加はなかったものの、明治時代に入りその規制がなくなってからは、人口が急激に増加。しかし、その人口増加により多くの大火が発生することになります。

1779年は400戸のうち1/4となる100戸が焼失しました。1806年に起こった大火では、内潤町(現在の元町末広町)も延焼し、番所・高札場・交代屋敷・官庫・板倉それに民家などを含め約350戸を焼いたそうです。
1866年にも内潤町から出火が続き、明治元年から大正10年までの54年間で、焼失戸数100戸以上の大火回数は25回、約2年に1回は大火に襲われていたことになります。

特に、1878年(明治11年)と1879年(明治12年)に起こった大火では、復興のための市区改正事業により街並みの大改造や建物の防火性の向上などが行われ、幅員20間(約36メートル)の防火線街路として二十間坂と基坂を拡幅し、幅員6間や12間の街路が直通して矩形の街路が誕生しました。
また、1907年(明治40年)、1921年(大正10年)大火後の復興では、1階が和風建築で2階が洋風建築の和洋折衷建築が多く建てられ、現在の洋風、古風建笙物が存在する元町末広町附近の独特な街並みが造られました。
このように、たびたび見舞われた大火により、都市計画や防火性の高い建物構造などが見直され、函館の市街地の構造は根底から変わることになったのです。

こうしてみると、函館は、本州の飢餓や景気には左右されず、独自の経済発展を遂げてきましたが、やはり各伝統的建造物群保存地区同様、1868年 箱館戦争や、第2次世界大戦といった戦争の波には勝てず、一時は景気がひどく冷え込みました。

しかし、昭和32年(1957年)「習慣読売」誌の「新日本百景」全国第1位に選ばれ、観光客が増加。夜景では香港・ナポリなどとともに世界3大夜景と言われています。現在では年間524万人を超す観光客が訪れる観光都市として変貌しました。元町末広町においても、「函館発祥の地」として、函館が最も著しい繁栄を遂げた時代に形成された、異国情緒豊かな街並み景観が概ねそのままの形で継承されており、観光地としても見ごたえのある場所として、毎年多くの観光客が訪れています。伝統的建造物群保存地区の発展・保存の貴重な成功例として、今後のますますの発展を願っています。

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伝建築地区を歩く 函館(2)

伝建タイトル

この頃の船の近代化の歴史を見ると、弁才船(500石以下)→千石船(1000石以上)→千石船(1400石以上)→洋式船(帆船)→汽船→蒸気船というようにどんどん大型化が進みます。

江戸時代前中期は、千石船(1000石以上)が主流で、北海道では商港として、「松前」「江差」「箱館」の三港を開港していました。本州諸港との交通は、太平洋と比較して日本海の方が穏やかで西回り航路が人気だったため、一番多くの商人が集まり活気があった港は「松前」でした。東回り航路の「箱館」は、大阪との結びつきが強く、コンブ等の水産物の貿易で発展はしていましたが、三港のうちでは最下位の港だったようです。

しかし江戸時代後期になると、千石船(1400石以上)、洋式船(帆船)、汽船、蒸気船が登場し、水深が深い港が好まれるようになったため、もともと火山の火口で水深が深い港であった「箱館」は、船の大型化とともに、貿易港として、商業地としての発展が目覚ましくなっていきました。

また、開国による諸外国文化の流入も、幕末期の箱館に大きな変化をもたらしています。

安政元年(1854年),日米和親条約の締結により,江戸幕府は箱館と下田の開港を決定し,乗組員の休養や物資の補給地として、外国船も箱館港に盛んに入港し始めるようになりました。
その後,米,蘭,露,英,仏の欧米5カ国と修好通商条約が締結され,安政6年(1859年)に,箱館は長崎,横浜とともにわが国最初の対外貿易港として開港します。この影響により,領事館が新築されたり,キリスト教会が建てられるなど,異国情緒豊かな街並みが形成されていきました。

外国との交易港として開港されたことによって近代化が進むのも早く、造船や蒸気機械がいち早く導入されました。これにより、木材の製材や鉱山等の開発も進み、北海道の内陸部へつながる鉄道ができたことで、北海道内陸部の生産品や物資も箱館港で貿易できるようになったため、箱館はますます発展し、明治以降は,開拓使函館支庁が置かれるなど、北海道の政治,経済,文化の中心地として栄えるようになりました。

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伝建地区を歩く 函館(1)

伝建タイトル
 伝統的建造物群保存地区について、平成30年度時点での登録地区は全117ヶ所となっています。
伝建地区をご紹介して3回目となる今回は、函館市にある「元町末広町」をぶらり旅したいと思います。

 函館は古くから天然の良港として知られ、海産物交易の集散地として栄えてきました。
そこで、今回は函館の歴史や経済の流れを辿りながら、元町末広町の街並みや建物の特徴についてご紹介いたします。

 1989年4月21日に伝統的建造物群保存地区として登録された元町末広町は、南西側に函館山、北東側に函館港がある、山と海に囲まれた地域です。歴史的文献によると、1802年 埋立により「内潤町」という町が登場。この内潤町が現在の元町末広町のルーツとなっており、江戸時代後期(1964年)に五稜郭が完成すると、現在の町名のもととなる「元町」の町名が登場します。「函館発祥の地」として、函館が最も繁栄した明治末期、大正、昭和初期に建築された和風・洋風さらには和洋折衷様式の建築物が多く残されており、これらが坂道、街路などと融合しながら特徴ある街並み景観を形成しています。
では、この独特な街並みはどのようにして造られていったのでしょうか。
 文献を見ていくと、函館の歴史は、船の近代化と大火がキーポイントであったといえます。
函館(以下箱館)では、古くから北海道に住む「アイヌ」と呼ばれる人々が、漁労・狩猟、交易などで生活していましたが、室町時代に蝦夷ヶ島(現在の北海道南部)から和人が進出し、12あった和人の城館でアイヌとの交易を始めました。また、この「道南十二館」と呼ばれる12の拠城館を拠点として和人によるアイヌの領域支配も進んだため、 1457年 アイヌの大首長コシャマインが不平等な交易・圧迫に不満を申し立てて蜂起します。この乱により箱館はゴーストタウン化し、地の境として隣の亀田村が繁栄しましたが、亀田の港は亀田川河口にあり砂や泥が流入して港を埋めてしまうため、船の大型化が進むにつれて、大船は箱館の港に入るようになり、住民も次第に箱館へ移っていったようです。
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伝建地区を歩く 足助(5)

伝建タイトル
【▲隆盛期】明治時代初期(1868年~1883年)
明治時代になると人々の通行が自由になり、物資の輸送も盛んになる。
伊那街道はますます利用され、足助の町は繁栄の一途をたどった。
明治元年(1868年)、伊那県が設置されると、三河の中の伊那県管轄地を管轄する足助庁が、足助村の陣屋跡に置かれた。明治3年(1870年)に足助村が伊那県足助庁へ提出した文書では「足助町」が使われている。
明治3年(1870年)時点での借家率をみると、持家に住むものは全体の3分の1弱、残りの3分の2強は借家で、高い借家率であったことがわかる。商業の発展は労働者の増加をもたらし、居宅確保への需要が高まる中、有力商人が蓄積した資本を不動産に投入したことで貸家が増加していったのであろう。
近代明治期に入ると明治11年(1878年)に東加茂郡役所が設置されて、足助は西三河山間部の行政の中心となった。
町並に関する変化は、明治中期に始まった道路改修工事に関わる部分が大きい。運送方法が中馬による搬送から馬車へと変わり、急勾配で狭隘な旧街道が機能しなくなったためである。
江戸時代に足助から信濃へ送られた塩の量は不明であるが、明治期になると若干記録が残っている。
明治16年~23年に至る8年間に、合計13万7689表、年平均1万7201俵の塩が、平古を経由して足助へ入っている。

また、明治24年(1891年)10月から翌25年9月までの1年間に、伊保村(豊田市)に宿泊した旅客数を、行先別にみてみると、次のようになっている。
なお、伊保村は、県道飯田線の名古屋-足助間のちょうど中間にある村である。
足助町1582人、名古屋町1168人、熱田町 614人、瀬戸町334人、岡崎町2892人

【▼衰退期】 明治時代中期~後期
明治23年(1890年~) 恐慌
明治33年(1900年) 資本主義恐慌
明治35年(1902年)のJR中央線着工開始によって足助は大きな影響を受ける。
明治44年(1911年)に中央線全線が開通し、東京駅 – 塩尻駅間は東日本旅客鉄道(JR東日本)、塩尻駅 – 名古屋駅間は東海旅客鉄道(JR東海)の管轄となる。
足助が信州と三河を結ぶ流通ルートから外れると、物資輸送基地としての機能は衰退したが、その後も林業・養蚕業の流通市場や金融資本が集積し、東加茂郡の在郷町として歩み続け、郡の政治経済の中心地の役割を果たした。しかし、後述の太平洋戦争後はトヨタの工業化の影響を受け、大きな変動を経て今日に至る。

【▲隆盛期】昭和時代初期(1930年~1939年)
大正期の終わりから巴川河畔の遊歩道の整備が進んだ。昭和5年 (1930年) には巴川両岸に数千本のもみじを植樹、「香嵐渓」と命名され、香積寺付近の観光開発も進んだ。足助大橋の完成に伴い、県道飯田街道(旧伊那街道)は巴川左岸の現国道153号に付け替えられ、町並みは次第に主要交通路から外れる。この新道に接続する道路の整備が進んで、新町から田町の間では既存の町屋が立ち退くなどの町並の変化が生じたが、ただし主要交通路から離れることで、結果として町並は継承されることとなった。香嵐渓観楓は内外に宣伝され、昭和5年(1930年)からは連年大規模な観楓団体が訪れるようになり、名実ともに東海随一の観楓拠点となった。

【▼衰退期】太平洋戦争(1940年~)
太平洋戦争がはじまる。
戦時体制下では観光活動は禁止された。足助町においても、昭和15年(1940年)の物資割当制以後は旅館·飲食店などは次第に営業が窮屈になり、従業員も応召や徴用などで極度に不足し、ついに昭和19年(1944年)には揚屋組合は休業、翌年には解散、旅人宿組合も昭和20年( 1945年 ) 1月に解体した。かくて、香嵐渓の観光に訪れる人影は絶え、遊園地も荒れるに委される状態となり、観光ブームは、昭和16年( 1941 年) 12月8日の太平洋戦争突入によって閉息した。
戦後は高度経済成長期の開発から取り残され、人口の流出が進み、1970年には過疎地域に指定されるまでになった。

伝建地区を歩く 足助(4)

伝建タイトル
※以下「足助町の歴史」、「中馬の宿場足助の町並み」参照しています。
【▲隆盛期】 江戸時代初期~中期(1681年~1775年)
江戸時代の初期までは領主の交代がしばしばあったが、天和元年(1681年)、本多淡路守忠周が足助村に陣屋を置き7000石の交代寄合となった。
忠周は天和3年(1683年)に寺社奉行となったことから3000石の加増を受け、これにより合計1万石の大名として足助藩を立藩。
しかし貞享4年(1687年)、勤務怠慢から寺社奉行を免職され、2年後の元禄2年(1689年)には加増分の3000石を没収されて再び7000石の旗本寄合となったため、助藩は廃藩された。
元禄期(1688-1704年)になると、宿場的要素に加え、商業の中心地的要素が強まってきたため、在郷町としての景観を整えるようになる。「足助町」と呼ばれたり、私文書にも、「町」の名称が使われている。また、「御用商人」と呼ばれる大商人も出現した。
なお、旗本寄合本多氏は幕末まで存続し最後の当主は「本多忠陳」となる。実質的に町の形態をなしていた足助村を足助町に変えたものとも考えられ、元文5年(1740年)まで「足助町」の名前で年貢免定が出された。

安永4年(1775)に大火があり、足助川右岸の田町から新町までのほとんどが焼失した。

【▲隆盛期】江戸時代中期(1781年~1788年)
安永年間(1772-1781年)までは横ばいに近い軒数が、天明年間(1781-1788年)以後は急激な増加に転じる。一時的な落ち込みは見せるものの、安永以前からは15倍以上に増加する。
足助の商業的な発展が軒数の増加を招いたものと理解できる。

【▼衰退期】 江戸時代後期(1833年~1844年)
天保の大飢饉が起きる。
天保7年(1836年)、1万三千人余が参加して、三河最大級の百姓一揆ともいわれる「加茂一揆」が九久平(豊田市)周辺で起きているが、この一揆が最初の攻撃目標としていたのは、足助の大商人たちであった。足助村では、7名の商人が打ちこわしにあっている。

≪天保の大飢饉 詳細≫
天保7年は、全国的な大凶作で、米価は暴騰し、ことにこの地方のように山間地帯で、田に乏しい農民の困窮は甚だしかった。
一揆は、9月20日に始まった。
夜のうちに、松平村、九平村(現豊田市)など、加茂郡南部の村々の有志20名余りがひそかに集合し、米・酒などの安売り、頼母子の2年休会、領主に対する年金の卯相場の引き下げなどを要求事項として立ち上った。
 21日、夜から行動を起こし、まずは手はじめに滝脇村(豊田市)の庄屋を打ちこわして気勢をあげ、六所山・焙烙山を囲む村々(下山村・豊田市)の庄屋・米屋・酒屋などを打ちこわし、さらに各陣屋へ要求をつきつけて承認させ、次第に領主に対する反抗もあわらにしていった。
 一揆は勢力を増大しながら、23日の午後、足助の町へ入った。西町の酒造屋山田屋茂八宅・西町の穀物木市屋仁兵衛・本町紙屋鈴木利兵衛の空き家・本町酒屋上田屋喜左衛門宅・本町酒造家白木屋宗七を次々と打ちこわした。
一揆の激しさに驚いた本多陣屋役人が、一揆側の要求を全面的に受け入れ、その内容を高札にして張り出したので、さしもの一揆もようやくなくなり、鎮まることとなった。
 24日、夜明けに矢作川を川舟で渡り切り、3000余人が挙母城下へ押し寄せる。ところが、24日には、領主側の一揆対策がこれまでの消極策から強硬策へと変化したため、武力による領主側の反撃を受け、一揆側は不利な状況に追い込まれてしまった。
 
以上この一揆は、前後5日間にわたったもので参加者は、吉田・奥殿・挙母・岡崎・西尾の諸藩領と、15の旗本知行所ならびに幕府直轄地にわたる247ヶ所村の百姓で、11万人を超えた。
処刑された者は、主謀者の獄門をはじめ遠島・追放から過料まで含めると、総勢1万1,457人にのぼった。
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伝建地区を歩く 足助(3)

伝建タイトル
では、日本の人口から見た足助宿の隆盛はどうだったのでしょう。
日本は、奈良時代から鎌倉時代までは急速な人口増加はなかったので、宿場町に関してもさほど発展はしていなかったと思われます。日本の人口が徐々に増え始めたのは室町時代の後期からで、これは入浜式塩田製塩の開発時期と重なります。想像の域を超えませんが、日本の人口の増加とともに製塩方法も進化していったのではないでしょうか。そして足助宿も、人口の増加、製塩技術の進歩とともに宿場町として、そして商家町としても形成され、発展していったのだと考えることができるのではないでしょうか。「敵に塩を送る」という故事のもとになっている、上杉謙信が仇敵 武田信玄へ塩を送ったという話もあるほど、人が生きていくうえで必ず必要とされる塩を中心とした物流だったので、人口の増加による影響は大きかったと考えられます。

以降の足助の歴史を辿ると、安永4年(1775年)の大火による町並み焼失からの再興や、明治時代の資本主義恐慌、中央線全線開通等の影響を受けての「塩の道」宿場町からの役割変化、観光による再復興等、やはりその時代時代での変化が町の在り方に大きな影響を与えていることが再認識できます。
また、再興の手段として近代化の選択をした有松とは違い、足助は地域の資産を有効に活用し、時代に寄り添って町の性質を柔軟に変化させていました。「香嵐渓」等観光開発による再復興も果たしましたが、最後は太平洋戦争による観光活動の禁止により戦後の人口流出に歯止めがきかず、現在は過疎地域に指定されています。再び、観光や景勝地として少しずつ持ち直してきているとはいえ、どの地域の問題でもある人口減少を食い止めることは難しいでしょう。足助には、昨年(2017年)訪れましたが、豊田市と合併したことにより、伝統的建造物群保存地区内の建物保全活動に活発に取り組んでいるような印象を受けました。地域の観光資源を有効活用し、歴史的価値の高い重要な街並みをこのまま保全していただけるよう願っています。

伝建地区を歩く 足助(2)

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では、東山道と東海道をつなぐ「塩の道」についても、もう少し詳しく触れたいと思います。
日本では岩塩がもともと少なく、内陸部は海水から塩を製塩するしかありませんでした。「塩の道」は海から内陸部へ塩や海鮮物を運ぶ重要な道だったのです。
そのひとつである、信濃へ塩を運んだ道には、日本海側からと太平洋側からの2つのルートが存在しました。日本海で製塩された塩(北塩)を、千国街道を通って塩尻まで運ぶ「北塩ルート」と、太平洋で製塩された塩(南塩)を塩尻まで運ぶ「南塩ルート」です。南塩ルートには、秋葉街道を通って塩尻まで行く道と、先にご紹介した足助街道と三州街道(伊那街道とも言われる)を行く道がありました。
距離的に考えると北塩ルートのほうが近いのですが冬場等は天候が問題となり、また、南塩ルートはどちらの街道にも厳しい関所などがなく利用しやすい道であったため、多くが南塩ルートから運ばれていたようです。そして、三河湾の吉良で製塩→船で東海道 岡崎宿へ→足助街道・三州街道(足助宿経由)→信濃塩尻、という東海道が起点となる経路で運ばれていた伊那街道も、前述した東海道の発展とともににぎわいを見せていったのではないでしょうか。

また、塩の製塩技術も、弥生時代→直煮製塩、奈良時代→藻塩焼製塩、室町時代→揚浜式塩田製塩、江戸時代→入浜式塩田製塩 と、時代とともに進化していきました。室町時代の揚浜式塩田製塩までは、塩の道としての流通量はさほど増減はないと思われますが、室町時代後期に開発された入浜式塩田製塩では、遠浅での潮の満ち引きを利用してより多くの塩が製造できるようになったため、流通量の増加とともに塩の道も発展していったと思われます。南塩ルートの通り道である足助宿ももちろん例外ではなく、入浜式塩田製法の開発も足助宿の流通拡大に一役買っていたと想像できます。
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伝建地区を歩く 足助(1)

伝建タイトル
伝統的建造物群保存地区について、平成29年度時点での登録地区は全114ヶ所となっています。今回はその中から、豊田市にある「足助」をピックアップしました。

2011年6月20日に伝統的建造物群保存地区として登録された足助ですが、現在のところ足助の起源に関する正確な詳細は不明です。今回は「塩の道」に注目し、私なりの解釈も交えながら大まかな起源を推測していきたいと思います。

時はさかのぼること7世紀後半。律令国家の広域行政区画である五畿七道の原型が出来上がったと言われています。五畿は山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内の5ヵ国をさし,七道は東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道をさしますが、この七道の内、東山道と東海道を南北につなぐ街道を「塩の道」と呼びました。塩の道はかつて各地に数多く存在しましたが、足助街道と三州街道からなるこの塩の道は、南塩ルートと言われ、太平洋側から信濃へ塩を運ぶ道としてとして栄えました。この足助街道と三州街道の中継地としてにぎわいを見せた宿場町が今回ご紹介する「足助」のルーツ、「足助宿」です。足助宿は景気の変動にあまり左右されなかったようで、その背景には、ひとが生きるうえで必ず必要とされる「塩」が寄与していたと考えられます。

足助宿の発展を考えるにあたり、まずは東山道と東海道の歴史から見ていきましょう。東山道は現在の中山道のルーツで、日本有数の山岳地帯を通るため難所も多く、冬は雪に埋もれてしまう道でもありました。しかし、大きな河川がなく川止めの困難を避ける利点もあり、平安時代中頃(10世紀頃)までは、東山道が安全な道として好んで選ばれていたようです。その後、河川に架ける橋を作る技術力が向上するとともに、温暖な太平洋側を進む東海道が良く使われるようになり、江戸時代以降には日本の街道の代表格ともいえるまでに発展していきました。
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伝建地区を歩く 有松(4)

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【▼第4の衰退期】1926~1945年
第一次世界大戦後は恐慌が続く。戦後恐慌から始まり、震災恐慌(関東大震災)、昭和に入ってもなお、金融恐慌、昭和恐慌、世界恐慌と続き、その後の第二次世界大戦(太平洋戦争)へ繋がる最大の衰退期へと突入した。
昭和初年の経済不況の際、政府は有松に根本的な対策を取るよう要請し、有松はあらゆる手を尽くして不況の克服につとめたが戦争が始まってしまう。
戦時統制が始まると軍需生産以外の産業は存続できなくなり、多くの恐慌で慢性的な不景気が経済を支配することとなる。購買力の減退、商品売行も減少し、1930年 世界恐慌では衰退にますます拍車がかかった。不景気がますます深刻化していく中、1931年には満州事変が勃発。1932年の有松絞りの産額は、25万反余といういままでにない最少額となってしまう。
なんとか一旦盛り返すものの、1937年には日華事変が始まって急激に戦時体制が強化され、全産業は戦時統制下となる。町政も戦争の影響で国家の軍事的政策の忠実な執行機関としての役割を担っていた。
さらに、1938年3月になると綿糸配給統制規則が出され、有松町に大きな打撃を与えた。「国内の綿糸の生産加工を禁止しその業は停止」という綿糸配給統制規則が施行され、綿製品の製造販売加工に関する制限規則が実施されたため、輸出向や綿糸・綿織物など製造および小売の販売が全面的に禁止されることとなる。これにより有松絞商工同業組合はとうとう解散となり、絞業者の大半は廃業。有松町は、戦争のために重要な経済の基礎を失ったのだ。
1945年8月 終戦。新しい日本の再建は敗戦後の厳しい現実のなかで始められた。終戦後も繊維はまだ逼迫した状態にあり国家統制がいっそう強化されていたため有松絞りは壊滅状態に追い込まれた。それに伴い有松町も勢いを失い、戦争が有松町に与えた影響は大きなものとなった。

以上が、隆盛期と衰退期から見た有松町です。
このように時代の流れに翻弄され、壊滅まで追い込まれてしまった有松絞りですが、統制が解除されると復興し、社会にゆとりが生まれると共に生産量も増加しました。しかし、昭和の中頃を過ぎると着物離れや安い中国製の製品との競争、後継者不足等、別の問題から生産量が減少した為、問屋業から小売業への転換や廃業が相次ぎましたが、問屋業から小売業への転換は非常に困難を極めたようです。現在ではかつて100種類を越えた技法も大きく数を減じていますが、一方で、1975年には愛知県内で初めての伝統工芸品に指定された他、国際絞り会議の開催と「ワールド絞りネットワーク」の設立、新素材を用いた製品の開発や国外の見本市への出品など有松・鳴海絞り振興のための取り組みも行われています。このように、経済、戦争、交通、技術革新に対応しながら時代を乗り越えてきた有松町の歴史からは、その柔軟さ、あきらめない精神など見習う面が多々あるのではないでしょうか。また、第4次革命(情報革命)と叫ばれる現代においても参考にすべき生き方があるような気がします。

最後になりますが、名古屋市では1990年12月に「有松土地区画整備事業」が決定しており、名鉄有松駅南7haのエリアで道路整備等による土地区画整理計画が進められました。町の発展や生活の利便性を優先するか、古き良き町並みを残していくかは難しい問題だとは思いますが、この事業の確定以降、平成景気と相まって有松が再び発展したにも関わらず、この区画では伝統的建物の急激な減少が見られました。悲しいことですが、町の発展と伝統的建物減少が相関関係にあるのは事実です。この現実をどうにかして調和させていくことが今後の伝統的建造物群保存地区に対しての課題なのだと思います。また、それぞれの時代背景に合わせて隆盛期ごとに建てられた伝統的建物を時代分布してみるというのも非常に興味深いのではないかと感じました。

今回は1935年に出版された有松町史やその他色々な文献を読み、有松の歴史の流れを読み解いてみました。ご指摘箇所も多々あると思いますが何卒ご容赦ください。少し雑駁とした内容になってしまいましたが、お付き合いいただきありがとうございました。

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(写真説明)毎年6月に開催されている「有松絞りまつり」で賑わう街道筋の店先

伝建地区を歩く 有松(3)

伝建タイトル

【▼第2の衰退期】1833~1876年
1833年に起こった天保の大飢饉から幕末、西南戦争までは、有松の第2の衰退期となる。
天保の改革で厳しい倹約令が出たことで、絹布絞は大打撃を受ける。その後、天保の改革は失敗し倹約令も解除されたが、外国船の渡来・開港に人心が動揺、著しく物価が上昇し庶民の生活が圧迫された。
天保の改革以降も、表面化してきた反幕府運動が社会不安を激化し、影響は東海道通行の減少に表れた。長州征伐(1863)以降に全国で争乱が拡大したことで東海道には多数の軍馬が往来することになり、参勤交代の大名行列や伊勢参りなどの庶民の旅行が姿を消し、東海道の旅人を最大の顧客としていた有松の経済に打撃を与えてしまう。西南戦争(1877年)が終戦し平和が回復しても、東海道の通行は回復せず、有松は著しく衰退した。
また、開港以来の経済変動で全国的な物価も高騰。有松絞の販路を狭める大きな要因となったほか、庶民の経済生活も激しい物価の値上がりに圧迫され、購買力が衰退した。
さらには、幕末以降凶作に苦しむ領民の生活扶助の一つとして有松絞りの独占権も解除されたため、名古屋・鳴海・大高方面に絞商(対抗勢力)が出現し、有松の減退に拍車をかけた。
有松絞りの立場は困窮し衰微して仕事が減少したうえに、物価騰貴や販売不振等が追い打ちとなり生計に支障をきたすほどとなった。かつて有力な絞商と目されていた家でさえこの変動期に完全に没落した家が数軒出てしまったほどである。

【▲第3の隆盛期】 1877~1899年
1867年、江戸-大阪間を結ぶ蒸気船の定期航路が開設された。また、明治時代初頭の国鉄東海道線の開通によって航路・陸路が整備され、東海道を歩行する旅客は姿を消した。絞商は店頭での販売を廃して、各地に新しく販路を開拓し純然たる卸問屋に変貌していくこととなる。
西南戦争以降は好景気を迎え、鈴木金蔵の新筋絞や竹田林三郎の養老絞の考案が有松絞再興の基礎となった。その後、不換紙幣整理による不景気があり生産量は一旦激減したが、経済が安定してくると有松の再興は不動のものとなる。
1889年 国鉄東海道線が全通し、卸商品の大半を名古屋駅・大高駅で貨物運送に出すようになった頃には、鈴木・竹田、両先覚者の活躍に刺激された有松の業者の間で積極的に発展をはかろうとする機運が生まれる。日清戦争(1895~1896年)後は、販路の拡充や新しい技法の開発などの努力が実り、生産量も増加、かつての行政上の特権は失われたが、新技法の開発と共に特許の取得も行われ、これらの特許に守られて有松絞りは全盛期を迎えることとなり、旧時代の繁栄をはるかに凌ぐ隆盛を極めることができた。

【▼第3の衰退期】 1904~1905年
第3の減退期は、日露戦争(1904~1905年)の影響である。日露戦争最中の著しい経済不振により、産額は半減した。

【▲第4の隆盛期】1915~1925年
第一次世界大戦により欧州の戦乱の漁夫の利を得て大正バブルがはじまる。有松もその好景気に乗って、著しく産額を増した。
熱田神宮前-笠寺間のみであった愛知電気鉄道が、1915年5月に笠寺-鳴海町有松裏間まで区間を広げ、有松町の交通運輸は飛躍的に発展する。これにより、経済が活発となり大いに繁栄を享受したのだ。
これが最後の隆盛期となるが、戦後も、大正9年頃までは有松の景気は良く、社会一般に絞模様が流行したことにより最大の黄金期を迎えることになった。