名古屋市港区の干拓(新田)について(3)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 作良新田(熱田築地前新田)について

作良新田(熱田築地前新田)その他、字名として、裏畑、平畑 イノ割、ロノ割、ハノ割、二ノ割(関戸文書より)註、「中填築禿」 とは新田中央の填で禿地で不毛を意味する。「蒲生」は文字どおり蒲の群生地。「江堀禿」 は新田内の用水路を指す。共に不作地。
この新田はもと天保八年 (1837) に薄地方勘定所の直営で、開発に一万六千六百両を調達したといわれるが、嘉永六年(1853) に伊藤次郎左衛門、内田忠蔵と共に御用達商人の首座を占めした信濃屋関戸哲太郎の三家所謂「名古屋三家衆」によって藩より引継れた。文久元年(1861)に作良新田と改称された。関戸氏の祖は関戸信忠といって、岩倉方の織田信安の家臣であった。岩倉落城後、春日井郡小木村に隠棲していたが、孫の五兵衛の代に寛永未年(1644)信濃屋といい、明和八年(1771)に曽孫五兵衛の代に関戸氏に復した。
その後、家業も転じて米穀、味噌を商い家運隆盛となった。

名古屋市港区の干拓(新田)について(3)」への2件のフィードバック

  1. 港区の史跡walkの会で、この地区の歴史に興味を持っているものです。言及されている作良新田の命名由来につき、ご教示いただければ幸甚です。

    • 山田さまコメントありがとうございます。

      回答になっていないかもしれませんが参考になればと思い返信させて頂きます。

      ●名古屋市港区が1942年に出版した名古屋市港区史(新田開発)には
      作良新田=熱田築地前新開は熱田前新田に隣接する東南、船方新田の南部である。今でいえば船方築地口電車通の東側の地である。天保八年(1837) 藩の地方(チガタ)において 開拓した當時(トウジ)熱田築地前新田と稱していたが、嘉永六年(1853)十一月内田忠次郎・伊藤次郎左衛門・関戸哲太郎の三人が、地方勘定所より払下をうけた。

      文久元年(一八六一)に至つて作良新田と改稱し、同三年十二月内田忠次郎の持分を他の二人に分譲したという。
      と記載あり。

      ●名古屋市港区のHPの港区の町名の由来についてには
      作倉町(さくらちょう)
      天保8年(1837)、藩の地方勘定所開発の「熱田築地前新開」を、文久元年(1861)、「作良(さくら)新田」と改称した。この「作良」にちなんで名付けられた。

      ●港区の地名から歴史を探る OASIS都市研究所さんの資料には
      干拓関連地名 ①干拓新田名 作倉町と記載あり。

      当社のHPに記載させて頂きました資料を含め命名の由来に関しても文献は見つかりませんでした。
      私もまだまだ勉強不足でより良い回答が出来ずすいません。
      HPの資料の内容で由来を推察すると、作良新田は不作地・不毛地で江戸時代に造られた新田の堤防は決壊することがよくあったので願いを込めて「作良し」と命名したかもしれません。
      また、作良新田が藩から払下げがあった翌年の1854年には、安政東海地震と安政南海地震が起こり液状化と津波の被害もあったと思います。
      参考になれば幸いです。

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