名古屋市港区の干拓(新田)について(4)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 山藤新田、元美新田について
文化十四年(一八一七)に戸田村(中川区)の山田弾六と宮町(中区)藤川屋伊藤九郎助らによって開発された。山藤新田は山と藤の開発者の頭文字をとって名付けた。
山藤、元美の両新田は明治九年に神宮寺新田、宝来新田と共に合併され、宝神新田と称された。その後、明治二十二年に、甚兵衛後新田、熱田前新田、稲永新田と合併、寛政村となる。
山藤新田は明治初年に戸長をしていた藤川屋の先祖と戸田の山田弾六家とは親戚同志の間柄であったので共同出資が出来た。
但し、神宮寺新田、山藤新田、元美新田の開発者は数人の合同施行となっている。検地帳の持分では藤川屋が筆頭で、他に戸田村の山田弾六、名古屋鉄砲町永楽屋伝右衛門、長須賀村岡田山例蔵の順になっている。
なお、藤川屋の由緒は伊藤九八郎と号す。勢洲長嶋に居住し、同姓舎弟九郎助が分家して、長嶋より尾洲葉栗郡黒田の郷に移住。其後寛永年中、黒田村より名古屋宮町に移り、当時九代相続す。且つ累代、町代役を相勤む (酒造家) とある。

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