伝建地区を歩く 足助(5)

伝建タイトル
【▲隆盛期】明治時代初期(1868年~1883年)
明治時代になると人々の通行が自由になり、物資の輸送も盛んになる。
伊那街道はますます利用され、足助の町は繁栄の一途をたどった。
明治元年(1868年)、伊那県が設置されると、三河の中の伊那県管轄地を管轄する足助庁が、足助村の陣屋跡に置かれた。明治3年(1870年)に足助村が伊那県足助庁へ提出した文書では「足助町」が使われている。
明治3年(1870年)時点での借家率をみると、持家に住むものは全体の3分の1弱、残りの3分の2強は借家で、高い借家率であったことがわかる。商業の発展は労働者の増加をもたらし、居宅確保への需要が高まる中、有力商人が蓄積した資本を不動産に投入したことで貸家が増加していったのであろう。
近代明治期に入ると明治11年(1878年)に東加茂郡役所が設置されて、足助は西三河山間部の行政の中心となった。
町並に関する変化は、明治中期に始まった道路改修工事に関わる部分が大きい。運送方法が中馬による搬送から馬車へと変わり、急勾配で狭隘な旧街道が機能しなくなったためである。
江戸時代に足助から信濃へ送られた塩の量は不明であるが、明治期になると若干記録が残っている。
明治16年~23年に至る8年間に、合計13万7689表、年平均1万7201俵の塩が、平古を経由して足助へ入っている。

また、明治24年(1891年)10月から翌25年9月までの1年間に、伊保村(豊田市)に宿泊した旅客数を、行先別にみてみると、次のようになっている。
なお、伊保村は、県道飯田線の名古屋-足助間のちょうど中間にある村である。
足助町1582人、名古屋町1168人、熱田町 614人、瀬戸町334人、岡崎町2892人

【▼衰退期】 明治時代中期~後期
明治23年(1890年~) 恐慌
明治33年(1900年) 資本主義恐慌
明治35年(1902年)のJR中央線着工開始によって足助は大きな影響を受ける。
明治44年(1911年)に中央線全線が開通し、東京駅 – 塩尻駅間は東日本旅客鉄道(JR東日本)、塩尻駅 – 名古屋駅間は東海旅客鉄道(JR東海)の管轄となる。
足助が信州と三河を結ぶ流通ルートから外れると、物資輸送基地としての機能は衰退したが、その後も林業・養蚕業の流通市場や金融資本が集積し、東加茂郡の在郷町として歩み続け、郡の政治経済の中心地の役割を果たした。しかし、後述の太平洋戦争後はトヨタの工業化の影響を受け、大きな変動を経て今日に至る。

【▲隆盛期】昭和時代初期(1930年~1939年)
大正期の終わりから巴川河畔の遊歩道の整備が進んだ。昭和5年 (1930年) には巴川両岸に数千本のもみじを植樹、「香嵐渓」と命名され、香積寺付近の観光開発も進んだ。足助大橋の完成に伴い、県道飯田街道(旧伊那街道)は巴川左岸の現国道153号に付け替えられ、町並みは次第に主要交通路から外れる。この新道に接続する道路の整備が進んで、新町から田町の間では既存の町屋が立ち退くなどの町並の変化が生じたが、ただし主要交通路から離れることで、結果として町並は継承されることとなった。香嵐渓観楓は内外に宣伝され、昭和5年(1930年)からは連年大規模な観楓団体が訪れるようになり、名実ともに東海随一の観楓拠点となった。

【▼衰退期】太平洋戦争(1940年~)
太平洋戦争がはじまる。
戦時体制下では観光活動は禁止された。足助町においても、昭和15年(1940年)の物資割当制以後は旅館·飲食店などは次第に営業が窮屈になり、従業員も応召や徴用などで極度に不足し、ついに昭和19年(1944年)には揚屋組合は休業、翌年には解散、旅人宿組合も昭和20年( 1945年 ) 1月に解体した。かくて、香嵐渓の観光に訪れる人影は絶え、遊園地も荒れるに委される状態となり、観光ブームは、昭和16年( 1941 年) 12月8日の太平洋戦争突入によって閉息した。
戦後は高度経済成長期の開発から取り残され、人口の流出が進み、1970年には過疎地域に指定されるまでになった。

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