伝建地区を歩く 弘前(3)

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では、この五大飢餓で弘前に何が起こったのか、文献に沿って見ていきましょう。

■元和飢餓(1615~1616年)
お城周辺に餓死者が散乱し、城下町が空き家ばかりになった。

■元禄飢餓(1692~1696年)
津軽領内で大量に餓死者が発生し、10万人の領民が亡くなり、疫死者と合わせて弘前藩の1/3の領民が亡くなった。藩の財政面が苦しくなり、藩士全体の55%、1000人の藩士を解雇したので、城下町の侍屋敷には大量の空き家が発生した。

■天明飢餓(1783~1787年)
弘前藩では8万人超え、弘前城下では4496人の餓死者が出て、農民の1/3が死亡した。この天明の飢餓では、「理性を失い、犬・猫・牛・馬・家畜類を食い、親を殺し人をも食べた」という内容も文献に残されており、相当にひどい飢餓だったことが窺える。
この飢餓で、田畑の荒廃化が進んだため、九代藩主寧親は帰農土着令を出して、藩士とその家族を農村に居住させ、農作業に従事させる。農村への移住の完了までは1年かかり、その数あわせて3156戸にのぼったと伝わっている。
この政策が功を奏してか、天明飢餓で激減した農民が徐々に増え始め、1797年(寛政9年)には、30年前に比べて約3倍にまで増加したため、1798年(寛政10年)には、藩による帰農政策は廃止。藩士を城下へ帰住させることが決まり、町の風景が急激に変わっていった。
農村から城下町侍町への移住は、混乱を避けるために2年に分けられ、1799年(寛政11年)までかかった。また、移住者の増加により、帰農政策前よりも、屋敷の間口は小さくなり、建築面積も狭くなった。現在、伝統的建造物群保存地区にある多くの武家屋敷は、この寛政11年~12年に建てられた武家屋敷である。
武家屋敷として、この時新築された件数は、3150軒。8年ぶりに武家屋敷が再度誕生し、景気とともに活気ある城下町が再生した。1627年(寛永4年)に焼失していた高岡城の天守閣も、1811年(文化8年)には、再建することができている。

■天保飢餓(1832~1839年)
餓死者は約3万6千人。10年間も慢性的な飢渇が続き、津軽の四大飢渇のひとつとなる。領内は再び空き家が増え、文献には、隣の家の空き家を壊して薪にしたとも書かれている。この飢饉では、天明飢餓の教訓が生かされ、備蓄もあったため、天明飢餓よりも長い飢饉だったが、餓死者が少なく済んだ。

以上が、一つ目のキーワード「飢餓」の大まかな流れですが、帰農政策の制定・廃止により、町並みに大きな変化があったことが分かりました。
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