名古屋市港区の干拓(新田)について(2)名古屋市古民家耐震の参考として

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 永徳新田について

稲富新田と同様、内海屋 (内田忠次郎) が開発したという。

熱田下総守熱田神宮の神官で、一種の名義貸であったようである。

内海屋は名古屋の豪商三人衆、伊藤家、関戸家と並ぶ投資家で、当地域には八ケ所ばかりの新田を所有していたそのうちのひとつがこの新田であった。

安政年間の台風で各地新田の堤防が決壊し、一時に負債を背負い込んで修復が出来ず、十三年間もこの新田は海水に浸っていた。慶応二年に岐阜在の投資家渡辺甚吉らが協力してやっと修復出来た。内海屋は既に破産明治二年の簿記録には荒地のため無税となっていた。明治十一年に稲永新田の一部となる。

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