名古屋市港区の干拓(新田)について(6)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 小川新田について
寛政九年(1797)に十四山村の佐藤五兵衛が開拓。当初は福田新田又は竹田新田といっていたが、文化二年(1805)十一月に小川新田と改称した。豪商水口屋小川伝兵衛に売却された結果である。その頃、寛政・享和年間には日光川の堤防が度重ねて破壌され、その出費がかさんだのが原因である。
新田内の用水はニッ寺井筋から引く茶屋新田の余水を用いた。当時家が一軒で六人が居住していた。一村とみられるようになったのは明治二十二年茶屋村の大字となった以後である。堤防の決壊原因はそこに堆積する筈の土砂がなかなかとどまらなかったためだと言われている。戸田川と日光川の合流地点であった。
昭和十九年の東南海地震以後、地盤沈下が激しいため、水利用の合理化、代替水の確保と共に揚水規制などの対策がとられいる。日光川沿いは蔑生えが多いところで昔は洲が出来易いようであった。新田開発には手頃の場であったようだ。川蟹が群がっていたという。
水口屋はもともと近世中期に農村から名古屋に出てきた新興商人であった。祖先は大阪夏の陣後、山城国井手里玉水村に住し、天禄十年(一六九七)名古屋・玉屋町に移住、正し徳二年(一七一二)正月から呉服商人、小間物商を始め、天文五年から天明八年迄は商運に恵まれ、しかしその後、文化七年(1810)衰微し遂に廃業となった。水口屋は熱田前新田の南の割をも所有していた。封建社会において最も意義あることは土地と農民の支配である。商人は金銭を以ってそれに参与することが出来、新田を所有することは領主と同じく所有権を有することであり、所有する新田で働く農民たちを支配することは商人にとっては大きな魅力でもあった。物心両面の安定を求めようとする商人の姿がそこに浮彫りされていた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)