愛知県古民家の特徴について(25)

水屋形式

水屋形式については、明確に示す古い史資料は現在のところ発見されていない。水屋構えを裏付するものとして、輪中についての史料が多く残っている。岐阜県海津町史史料偏によれば、江戸時代の延享四年(1747)以来、文久元年(1861)までの1世紀強におよぶ治水工事の普請記録をみることができる。

木曽川・長良川・揖斐川の三川は、尾張(愛知)・美濃(岐阜)・伊勢(三重)の国境に位置する河口地域の低湿地帯(輪中)のことである。この輪中に構えた屋敷と家屋を水から守ることにある。農民が自然の猛威と戦い、経験と工夫から生れた屋敷と建物である。しかし、屋敷や建物の工夫が何時の時代から、どのようにして成立したかは不明である。先の史資料から判断すれば、治水工事が徳川幕府の直轄普請として延享年聞からおこり、単に農民だけの仕事で終るものではなかった。記録を分類すると、公儀・国役・手伝・領主・百姓自普請などに分けられ、中でも諸藩からの御手伝普請が34藩におよび、薩摩(鹿児島県)の普請石高は群をぬいて大きく、宝暦三年(1753)と文化十三年(1816)の二回となっている。

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