愛知県古民家の特徴について(26)

これについての薩摩藩士は直接工事を担当して、初期の工事で難渋をきわめ、数拾名の犠牲者を出している。このことは現在も各地に伝承され賞賛されている。延享年間以降の治水工事が除々に完備されることと平行して、耕作地や住居に安定感ができ、江戸中期あたりから次第に水屋構えが普及してきたのではあるまいか。それは治水工事が完成したと言っても、各河川の洪水を直接に受難することがなくなったと言うことで、各河川よりも低い耕作地や屋敷は、雨水の溜るのを防ぐことはできなかった。このために圦樋(水の出し入れする水門の樋)を設けて、被害を少なくする工夫がなされている。
このことから河川の川床と同等以上に屋敷を嵩上げし、さらに食糧や貴重品などを収納できる場所として、屋敷の一部に石垣を積み上げて高い地盤を造成し、土蔵式や離れ屋式の建造ができるようになったものと考えられる。この建物を水屋とか水屋構えと呼んでいる。

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