伝建地区を歩く 弘前(5)

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■太平洋戦争
昭和恐慌そして、昭和の農村恐慌から太平洋戦争へ向かい、日本は敗戦へと突き進む。
しかし、弘前市は第八師団という軍事施設があったにも関わらず、幸運なことに中心街が空襲されなかった。
終戦後は、人口自然増の流れの中で、1955年(昭和30年)3月1日、弘前市と中津軽郡の11ヶ村が合併。人口は約2倍になったが、車社会が進むにつれ、郊外に大型スーパーが次々と進出。商店街中心の都市構造を大きく変え、弘前市の商店街は著しく衰退した。車社会という大きな社会構造の変化の流れは止めることができず、弘前市も大きく衰退することとなった。

このように、「軍事」をキーワードに弘前の歴史を追うと、「軍事」と「戦争」が弘前市の発展に大きく関係していたようにみえました。
また、このように軍都であった弘前市仲町という地区が、当時のまま現存していられるのは、色々な偶然がもたらした奇跡であると言えるのではないでしょうか。
例えば、軍都である弘前に戦火による建物群の消失がなかったこと。また、鉄道が開通した頃、弘前駅の開業に関して市民が消極的であり、弘前駅が市街地から離れて造られたこと。そのことで、弘前城や、その北側に位置する仲町が、街の開発の波に呑み込まれずに済んだこと。現在の仲町が、当時と変わらない武家屋敷の旧姿を現代に伝えられているのも、このように市街地発展から外れる要因が重なっていたからだと思います。また、その町並みが構成されたのも、「飢餓」による帰農政策の制定・廃止によるものでした。

どの伝統的建造物群保存地区も、様々な偶然の積み重ねにより、発展から取り残され、阻害されたことにより現存している奇跡なのだと思いますが、今回の仲町は、「飢餓」と「軍事」が作り上げたその奇跡で、このことを再度認識させてくれる地区でありました。
 
実は、この伝統的建造物群保存地区 弘前市仲町を一昨年訪れた際には、まだ弘前の歴史的背景に関しての知識が浅く、しっかり見ることができなかったのですが、この文章を作成後、改めてこの弘前市仲町を訪れてみたいと切に思いました。

以上、乱文ですが、お付き合いいただきありがとうございました。

伝建地区を歩く 弘前(4) 

伝建タイトル
では、二つ目のキーワードの「軍事」に触れていきましょう。

「軍事」に関しては、関ヶ原の戦い、明治維新前後、太平洋戦争までの3つのポイントがあります。

■関ヶ原の戦い
先にも触れましたが、弘前藩は徳川家康の西軍に着くことにより、戦後、上州大館領の二千石を加増され、家格4万7千石となった。これにより、近世大名として、1603年(慶長8年)に津軽藩(弘前藩)として高岡城下町(弘前城)をつくることができ、五大飢餓があったものの城下町の発展に支障はなかったと思われる。

■明治維新
明治維新前後(1797年~1821年)は、蝦夷地警備が大きな財政的負担となっていく。
この警備は28年間行われ、藩財政の困窮は民衆や百姓への大きな負担となり、藩士や領民は、経済的・肉体的に過大な負担を負うこととなった。具体的には、郷夫として蝦夷地警備に動員された出兵総数の大半を百姓が占めていたため、労働力不足となり、農耕に直接影響を与えており、開発と蝦夷地警備は相乗的に農村を疲弊させていった。
しかし、1797年(寛政9年)11月、山田剛太郎ら295人が箱館(函館)を警備した恩賞として、1805年(文化2年)に津軽藩は七万石に昇格、1808年(文化5年)には家格十万石に昇進することができている。
1855年(安政2年)には、アメリカ国使との開国交渉がまとまり、箱館を開港することになったため、津軽藩(弘前藩)に対して、幕府より蝦夷地警衛再開の命令が下り、箱館に本陣屋を構えることになった。この警備は徳川幕府が崩壊するまで13年間続いた。
1868年(慶応4年)になり、奥羽両国(東北地方)が薩長の新政府の態度に反発、東北の諸藩25藩の代表が集り、同盟を結成した。その後、北越六藩も参加し、奥羽越列同盟となり、新政府軍である薩長軍に対処することになったが、新政府軍の勢いが優勢だったため、秋田・津軽は素早く転身して新政府軍に加勢し、青森県の礎を築くことになった。また、奥羽戦争・箱館戦争においても新政府軍に加勢したので、弘前市域は戦場にはならなかった。
1869年(明治11年)になると、版籍奉還によって大名はすべて消滅したが、藩という名の行政機関は残った。
明治に入っても、青森県で最大の都市は弘前であったので、1871年(明治4年)に弘前県が誕生したが、青森県の初代知事が青森市に県庁を移したことにより、弘前県は青森県と改称された。県庁を青森に奪われた弘前は、その後人口の流出が続き、特別の産業もないまま急速に衰退。最盛期には年間39,000人を数えた人口が、1889年(明治22年)には31,000人と、8,000人の人口減少に見舞われ、大きな危機感を持つようになり、城下町弘前の住民生活も大きく転換点を向かえることになった。

1894年(明治27年)には弘前から青森まで鉄道が開通。
1895年(明治29年)に軍備拡張の必要性から増設された6個師団の一つ、八師団軍が、弘前の都市に多大なる経済発展をもたらし、新たな商都・軍都としての弘前が始まる。
産業の発達を刺激し、また、商業地域も影響して市街地の変貌をもたらした。その後、軍事施設や公共的建物等が次々に建てられ、「軍都弘前」が誕生していく。
その結果、弘前市の人口は増加。弘前の経済的発展は昭和恐慌の前まで続くことになった。
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伝建地区を歩く 弘前(3)

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では、この五大飢餓で弘前に何が起こったのか、文献に沿って見ていきましょう。

■元和飢餓(1615~1616年)
お城周辺に餓死者が散乱し、城下町が空き家ばかりになった。

■元禄飢餓(1692~1696年)
津軽領内で大量に餓死者が発生し、10万人の領民が亡くなり、疫死者と合わせて弘前藩の1/3の領民が亡くなった。藩の財政面が苦しくなり、藩士全体の55%、1000人の藩士を解雇したので、城下町の侍屋敷には大量の空き家が発生した。

■天明飢餓(1783~1787年)
弘前藩では8万人超え、弘前城下では4496人の餓死者が出て、農民の1/3が死亡した。この天明の飢餓では、「理性を失い、犬・猫・牛・馬・家畜類を食い、親を殺し人をも食べた」という内容も文献に残されており、相当にひどい飢餓だったことが窺える。
この飢餓で、田畑の荒廃化が進んだため、九代藩主寧親は帰農土着令を出して、藩士とその家族を農村に居住させ、農作業に従事させる。農村への移住の完了までは1年かかり、その数あわせて3156戸にのぼったと伝わっている。
この政策が功を奏してか、天明飢餓で激減した農民が徐々に増え始め、1797年(寛政9年)には、30年前に比べて約3倍にまで増加したため、1798年(寛政10年)には、藩による帰農政策は廃止。藩士を城下へ帰住させることが決まり、町の風景が急激に変わっていった。
農村から城下町侍町への移住は、混乱を避けるために2年に分けられ、1799年(寛政11年)までかかった。また、移住者の増加により、帰農政策前よりも、屋敷の間口は小さくなり、建築面積も狭くなった。現在、伝統的建造物群保存地区にある多くの武家屋敷は、この寛政11年~12年に建てられた武家屋敷である。
武家屋敷として、この時新築された件数は、3150軒。8年ぶりに武家屋敷が再度誕生し、景気とともに活気ある城下町が再生した。1627年(寛永4年)に焼失していた高岡城の天守閣も、1811年(文化8年)には、再建することができている。

■天保飢餓(1832~1839年)
餓死者は約3万6千人。10年間も慢性的な飢渇が続き、津軽の四大飢渇のひとつとなる。領内は再び空き家が増え、文献には、隣の家の空き家を壊して薪にしたとも書かれている。この飢饉では、天明飢餓の教訓が生かされ、備蓄もあったため、天明飢餓よりも長い飢饉だったが、餓死者が少なく済んだ。

以上が、一つ目のキーワード「飢餓」の大まかな流れですが、帰農政策の制定・廃止により、町並みに大きな変化があったことが分かりました。
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伝建地区を歩く 弘前(2)

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歴史的文献によると、仲町の原形は、高岡城完成時の初期の町割りですでに出来上がっていたようですが、この頃はまだ歴史的文献で触れられることはなく、「高岡」から「弘前」に改称されたのちに、仲町の一部が平地に形成されたとの記載を見つけることができました。
また、1646年(正保3年)の津軽弘前城の絵図によると、城北は足軽町・歩ノ者町・小人町・禰宜町および町屋に町割りされており、1648年(慶安元年)に津軽藩が幕府に提出した文献にも、足軽町、歩ノ者町という記載があります。
その後、藩士土着令による藩士の移動と土着令廃止による移動で、比較的身分の高い藩士も城下町に武家屋敷を持つようになり、足軽町、歩ノ者町あたりは、城郭外の侍町「若党町」となりました。その後、弘前城の北側、現在の若党町・馬喰町・小人町の辺りは「仲町」と総称され、御家中屋敷と呼ばれるようになり、今でも武家屋敷の旧姿を現代に伝えています。

さて、仲町の成り立ちがわかったところで、ここからは弘前の歴史にもう少し踏み込んで、その町並みや風景がどうできていったのかを紐解いていきたいと思います。

弘前の歴史を辿り、私が感じた重要な2つのキーワードは「飢餓」と「軍事」です。

「飢餓」に関して、津軽では、江戸時代の13世紀から19世紀かけて小氷河期に入っており、300年で47回もの凶作がありました。この凶作の中には、五大飢餓と言われる大凶作(元和飢餓、元禄飢餓、宝暦飢餓、天明飢餓、天保飢餓)も含まれており、何十万人の餓死者が発生したと言われています。
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伝建地区を歩く 弘前(1)

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伝統的建造物群保存地区について、現在、文化庁が選定している登録地区は全117ヶ所となっています。毎回ひとつの伝建地区をピックアップし、その歴史を辿る「伝健ぶらり旅」も、今回で3回目となりました。今回は、青森県弘前市にある伝建地区「仲町」をぶらり旅していきたいと思います。

弘前市 仲町は、1978年5月31日に伝統的建造物群保存地区として登録されました。弘前城の城下町北部に当たるのが現在の仲町で、当然ながら、この城下町の歴史は弘前城と密接な関係にあります。弘前城は、その名の通り、弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった場所です。まずはこの弘前城の歴史から仲町の成り立ちを見ていきましょう。

弘前藩は、1590年(天正18年)、津軽地方の統一を成し遂げ、津軽3郡(4万5千石)の領有を認められた初代藩主 津軽為信により、その礎が築かれました。さらに、1600年(慶長5年)には、関ヶ原の戦いに徳川家康方として参戦し、その功績によって2千石を加増されています。
1603年(慶長8年)には徳川幕府の成立とともに外様大名のひとりとして津軽領有を承認され、そのときに藩政の拠点となる築城の地として選ばれたのが、高岡、現在の弘前でした。
為信は高岡(現在の弘前)に新たな町割りを行い、次々と領地の開拓を進めて城の築城を計画するに至りますが、1607年(慶長12年)に病没。跡を継いだ2代藩主・信枚が1610年(慶長15年)から築城を開始しました。
翌年1611年(慶長16年)には五層の天守閣を構える平山城「高岡城(現在の弘前城)」が完成し、城下町の歴史も始まります。その後もさらに堤防などを築きながら成立した城下町は、1628年(寛永5年)に「高岡」から「弘前」へと改称し、近世都市として歩み始めます。
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伝建地区を歩く 函館(3)

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また、江戸時代後期から明治時代にかけての本州での大飢饉や地震等の災害、不況などにあまり影響を受けなかったため、飢饉時には本州の東北地方からの移住者や出稼ぎ者が箱館に向かいました。江戸時代の箱館は入民が規制されていたため、そこまでの人口増加はなかったものの、明治時代に入りその規制がなくなってからは、人口が急激に増加。しかし、その人口増加により多くの大火が発生することになります。

1779年は400戸のうち1/4となる100戸が焼失しました。1806年に起こった大火では、内潤町(現在の元町末広町)も延焼し、番所・高札場・交代屋敷・官庫・板倉それに民家などを含め約350戸を焼いたそうです。
1866年にも内潤町から出火が続き、明治元年から大正10年までの54年間で、焼失戸数100戸以上の大火回数は25回、約2年に1回は大火に襲われていたことになります。

特に、1878年(明治11年)と1879年(明治12年)に起こった大火では、復興のための市区改正事業により街並みの大改造や建物の防火性の向上などが行われ、幅員20間(約36メートル)の防火線街路として二十間坂と基坂を拡幅し、幅員6間や12間の街路が直通して矩形の街路が誕生しました。
また、1907年(明治40年)、1921年(大正10年)大火後の復興では、1階が和風建築で2階が洋風建築の和洋折衷建築が多く建てられ、現在の洋風、古風建笙物が存在する元町末広町附近の独特な街並みが造られました。
このように、たびたび見舞われた大火により、都市計画や防火性の高い建物構造などが見直され、函館の市街地の構造は根底から変わることになったのです。

こうしてみると、函館は、本州の飢餓や景気には左右されず、独自の経済発展を遂げてきましたが、やはり各伝統的建造物群保存地区同様、1868年 箱館戦争や、第2次世界大戦といった戦争の波には勝てず、一時は景気がひどく冷え込みました。

しかし、昭和32年(1957年)「習慣読売」誌の「新日本百景」全国第1位に選ばれ、観光客が増加。夜景では香港・ナポリなどとともに世界3大夜景と言われています。現在では年間524万人を超す観光客が訪れる観光都市として変貌しました。元町末広町においても、「函館発祥の地」として、函館が最も著しい繁栄を遂げた時代に形成された、異国情緒豊かな街並み景観が概ねそのままの形で継承されており、観光地としても見ごたえのある場所として、毎年多くの観光客が訪れています。伝統的建造物群保存地区の発展・保存の貴重な成功例として、今後のますますの発展を願っています。

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伝建築地区を歩く 函館(2)

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この頃の船の近代化の歴史を見ると、弁才船(500石以下)→千石船(1000石以上)→千石船(1400石以上)→洋式船(帆船)→汽船→蒸気船というようにどんどん大型化が進みます。

江戸時代前中期は、千石船(1000石以上)が主流で、北海道では商港として、「松前」「江差」「箱館」の三港を開港していました。本州諸港との交通は、太平洋と比較して日本海の方が穏やかで西回り航路が人気だったため、一番多くの商人が集まり活気があった港は「松前」でした。東回り航路の「箱館」は、大阪との結びつきが強く、コンブ等の水産物の貿易で発展はしていましたが、三港のうちでは最下位の港だったようです。

しかし江戸時代後期になると、千石船(1400石以上)、洋式船(帆船)、汽船、蒸気船が登場し、水深が深い港が好まれるようになったため、もともと火山の火口で水深が深い港であった「箱館」は、船の大型化とともに、貿易港として、商業地としての発展が目覚ましくなっていきました。

また、開国による諸外国文化の流入も、幕末期の箱館に大きな変化をもたらしています。

安政元年(1854年),日米和親条約の締結により,江戸幕府は箱館と下田の開港を決定し,乗組員の休養や物資の補給地として、外国船も箱館港に盛んに入港し始めるようになりました。
その後,米,蘭,露,英,仏の欧米5カ国と修好通商条約が締結され,安政6年(1859年)に,箱館は長崎,横浜とともにわが国最初の対外貿易港として開港します。この影響により,領事館が新築されたり,キリスト教会が建てられるなど,異国情緒豊かな街並みが形成されていきました。

外国との交易港として開港されたことによって近代化が進むのも早く、造船や蒸気機械がいち早く導入されました。これにより、木材の製材や鉱山等の開発も進み、北海道の内陸部へつながる鉄道ができたことで、北海道内陸部の生産品や物資も箱館港で貿易できるようになったため、箱館はますます発展し、明治以降は,開拓使函館支庁が置かれるなど、北海道の政治,経済,文化の中心地として栄えるようになりました。

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伝建地区を歩く 函館(1)

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 伝統的建造物群保存地区について、平成30年度時点での登録地区は全117ヶ所となっています。
伝建地区をご紹介して2回目となる今回は、函館市にある「元町末広町」をぶらり旅したいと思います。

 函館は古くから天然の良港として知られ、海産物交易の集散地として栄えてきました。
そこで、今回は函館の歴史や経済の流れを辿りながら、元町末広町の街並みや建物の特徴についてご紹介いたします。

 1989年4月21日に伝統的建造物群保存地区として登録された元町末広町は、南西側に函館山、北東側に函館港がある、山と海に囲まれた地域です。歴史的文献によると、1802年 埋立により「内潤町」という町が登場。この内潤町が現在の元町末広町のルーツとなっており、江戸時代後期(1964年)に五稜郭が完成すると、現在の町名のもととなる「元町」の町名が登場します。「函館発祥の地」として、函館が最も繁栄した明治末期、大正、昭和初期に建築された和風・洋風さらには和洋折衷様式の建築物が多く残されており、これらが坂道、街路などと融合しながら特徴ある街並み景観を形成しています。
では、この独特な街並みはどのようにして造られていったのでしょうか。
 文献を見ていくと、函館の歴史は、船の近代化と大火がキーポイントであったといえます。
函館(以下箱館)では、古くから北海道に住む「アイヌ」と呼ばれる人々が、漁労・狩猟、交易などで生活していましたが、室町時代に蝦夷ヶ島(現在の北海道南部)から和人が進出し、12あった和人の城館でアイヌとの交易を始めました。また、この「道南十二館」と呼ばれる12の拠城館を拠点として和人によるアイヌの領域支配も進んだため、 1457年 アイヌの大首長コシャマインが不平等な交易・圧迫に不満を申し立てて蜂起します。この乱により箱館はゴーストタウン化し、地の境として隣の亀田村が繁栄しましたが、亀田の港は亀田川河口にあり砂や泥が流入して港を埋めてしまうため、船の大型化が進むにつれて、大船は箱館の港に入るようになり、住民も次第に箱館へ移っていったようです。
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伝建地区を歩く 足助(5)

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【▲隆盛期】明治時代初期(1868年~1883年)
明治時代になると人々の通行が自由になり、物資の輸送も盛んになる。
伊那街道はますます利用され、足助の町は繁栄の一途をたどった。
明治元年(1868年)、伊那県が設置されると、三河の中の伊那県管轄地を管轄する足助庁が、足助村の陣屋跡に置かれた。明治3年(1870年)に足助村が伊那県足助庁へ提出した文書では「足助町」が使われている。
明治3年(1870年)時点での借家率をみると、持家に住むものは全体の3分の1弱、残りの3分の2強は借家で、高い借家率であったことがわかる。商業の発展は労働者の増加をもたらし、居宅確保への需要が高まる中、有力商人が蓄積した資本を不動産に投入したことで貸家が増加していったのであろう。
近代明治期に入ると明治11年(1878年)に東加茂郡役所が設置されて、足助は西三河山間部の行政の中心となった。
町並に関する変化は、明治中期に始まった道路改修工事に関わる部分が大きい。運送方法が中馬による搬送から馬車へと変わり、急勾配で狭隘な旧街道が機能しなくなったためである。
江戸時代に足助から信濃へ送られた塩の量は不明であるが、明治期になると若干記録が残っている。
明治16年~23年に至る8年間に、合計13万7689表、年平均1万7201俵の塩が、平古を経由して足助へ入っている。

また、明治24年(1891年)10月から翌25年9月までの1年間に、伊保村(豊田市)に宿泊した旅客数を、行先別にみてみると、次のようになっている。
なお、伊保村は、県道飯田線の名古屋-足助間のちょうど中間にある村である。
足助町1582人、名古屋町1168人、熱田町 614人、瀬戸町334人、岡崎町2892人

【▼衰退期】 明治時代中期~後期
明治23年(1890年~) 恐慌
明治33年(1900年) 資本主義恐慌
明治35年(1902年)のJR中央線着工開始によって足助は大きな影響を受ける。
明治44年(1911年)に中央線全線が開通し、東京駅 – 塩尻駅間は東日本旅客鉄道(JR東日本)、塩尻駅 – 名古屋駅間は東海旅客鉄道(JR東海)の管轄となる。
足助が信州と三河を結ぶ流通ルートから外れると、物資輸送基地としての機能は衰退したが、その後も林業・養蚕業の流通市場や金融資本が集積し、東加茂郡の在郷町として歩み続け、郡の政治経済の中心地の役割を果たした。しかし、後述の太平洋戦争後はトヨタの工業化の影響を受け、大きな変動を経て今日に至る。

【▲隆盛期】昭和時代初期(1930年~1939年)
大正期の終わりから巴川河畔の遊歩道の整備が進んだ。昭和5年 (1930年) には巴川両岸に数千本のもみじを植樹、「香嵐渓」と命名され、香積寺付近の観光開発も進んだ。足助大橋の完成に伴い、県道飯田街道(旧伊那街道)は巴川左岸の現国道153号に付け替えられ、町並みは次第に主要交通路から外れる。この新道に接続する道路の整備が進んで、新町から田町の間では既存の町屋が立ち退くなどの町並の変化が生じたが、ただし主要交通路から離れることで、結果として町並は継承されることとなった。香嵐渓観楓は内外に宣伝され、昭和5年(1930年)からは連年大規模な観楓団体が訪れるようになり、名実ともに東海随一の観楓拠点となった。

【▼衰退期】太平洋戦争(1940年~)
太平洋戦争がはじまる。
戦時体制下では観光活動は禁止された。足助町においても、昭和15年(1940年)の物資割当制以後は旅館·飲食店などは次第に営業が窮屈になり、従業員も応召や徴用などで極度に不足し、ついに昭和19年(1944年)には揚屋組合は休業、翌年には解散、旅人宿組合も昭和20年( 1945年 ) 1月に解体した。かくて、香嵐渓の観光に訪れる人影は絶え、遊園地も荒れるに委される状態となり、観光ブームは、昭和16年( 1941 年) 12月8日の太平洋戦争突入によって閉息した。
戦後は高度経済成長期の開発から取り残され、人口の流出が進み、1970年には過疎地域に指定されるまでになった。

伝建地区を歩く 足助(4)

伝建タイトル
※以下「足助町の歴史」、「中馬の宿場足助の町並み」参照しています。
【▲隆盛期】 江戸時代初期~中期(1681年~1775年)
江戸時代の初期までは領主の交代がしばしばあったが、天和元年(1681年)、本多淡路守忠周が足助村に陣屋を置き7000石の交代寄合となった。
忠周は天和3年(1683年)に寺社奉行となったことから3000石の加増を受け、これにより合計1万石の大名として足助藩を立藩。
しかし貞享4年(1687年)、勤務怠慢から寺社奉行を免職され、2年後の元禄2年(1689年)には加増分の3000石を没収されて再び7000石の旗本寄合となったため、助藩は廃藩された。
元禄期(1688-1704年)になると、宿場的要素に加え、商業の中心地的要素が強まってきたため、在郷町としての景観を整えるようになる。「足助町」と呼ばれたり、私文書にも、「町」の名称が使われている。また、「御用商人」と呼ばれる大商人も出現した。
なお、旗本寄合本多氏は幕末まで存続し最後の当主は「本多忠陳」となる。実質的に町の形態をなしていた足助村を足助町に変えたものとも考えられ、元文5年(1740年)まで「足助町」の名前で年貢免定が出された。

安永4年(1775)に大火があり、足助川右岸の田町から新町までのほとんどが焼失した。

【▲隆盛期】江戸時代中期(1781年~1788年)
安永年間(1772-1781年)までは横ばいに近い軒数が、天明年間(1781-1788年)以後は急激な増加に転じる。一時的な落ち込みは見せるものの、安永以前からは15倍以上に増加する。
足助の商業的な発展が軒数の増加を招いたものと理解できる。

【▼衰退期】 江戸時代後期(1833年~1844年)
天保の大飢饉が起きる。
天保7年(1836年)、1万三千人余が参加して、三河最大級の百姓一揆ともいわれる「加茂一揆」が九久平(豊田市)周辺で起きているが、この一揆が最初の攻撃目標としていたのは、足助の大商人たちであった。足助村では、7名の商人が打ちこわしにあっている。

≪天保の大飢饉 詳細≫
天保7年は、全国的な大凶作で、米価は暴騰し、ことにこの地方のように山間地帯で、田に乏しい農民の困窮は甚だしかった。
一揆は、9月20日に始まった。
夜のうちに、松平村、九平村(現豊田市)など、加茂郡南部の村々の有志20名余りがひそかに集合し、米・酒などの安売り、頼母子の2年休会、領主に対する年金の卯相場の引き下げなどを要求事項として立ち上った。
 21日、夜から行動を起こし、まずは手はじめに滝脇村(豊田市)の庄屋を打ちこわして気勢をあげ、六所山・焙烙山を囲む村々(下山村・豊田市)の庄屋・米屋・酒屋などを打ちこわし、さらに各陣屋へ要求をつきつけて承認させ、次第に領主に対する反抗もあわらにしていった。
 一揆は勢力を増大しながら、23日の午後、足助の町へ入った。西町の酒造屋山田屋茂八宅・西町の穀物木市屋仁兵衛・本町紙屋鈴木利兵衛の空き家・本町酒屋上田屋喜左衛門宅・本町酒造家白木屋宗七を次々と打ちこわした。
一揆の激しさに驚いた本多陣屋役人が、一揆側の要求を全面的に受け入れ、その内容を高札にして張り出したので、さしもの一揆もようやくなくなり、鎮まることとなった。
 24日、夜明けに矢作川を川舟で渡り切り、3000余人が挙母城下へ押し寄せる。ところが、24日には、領主側の一揆対策がこれまでの消極策から強硬策へと変化したため、武力による領主側の反撃を受け、一揆側は不利な状況に追い込まれてしまった。
 
以上この一揆は、前後5日間にわたったもので参加者は、吉田・奥殿・挙母・岡崎・西尾の諸藩領と、15の旗本知行所ならびに幕府直轄地にわたる247ヶ所村の百姓で、11万人を超えた。
処刑された者は、主謀者の獄門をはじめ遠島・追放から過料まで含めると、総勢1万1,457人にのぼった。
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