名古屋市港区の干拓(新田)について(8)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 甚兵衛後新田について

寛延三年(1750)に福田新田の西川甚兵衛吉成が自分金で開発に着手、四年後に完成。吉成は甚兵衛吉蔵の孫である。その後十三年間は作取不能で見立免。用水は甚兵衛新田より引く。高成となったのは享和二年(1802)である。この新田は東西四十五間。用水は西井筋にかかり、甚兵衛新田より流れていた。

新田の南西は庄内川で、川下にある新田故、干天や塩害の悩みがあった。明治二十一年四月七日に公布された法律第一号による市制町村制により、名古屋区は翌明治二十二年十月一日より名古屋区より名古屋市となり、当時の甚兵衛後新田は熱田前新田、宝神新田、稲永新田と合併、寛政村となった。明治三十九年から小碓村の大字。氏神は神明社。

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