名古屋市港区の干拓(新田)について(9)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 西福田新田について

貞享元年(1684)の検地により西福田新田が成立すると、東福田新田をまとめて福田新田村と称した。もともと寛永二十年に鬼頭景義が東福田新田分と西福田新田分と同時に開発したものであるが、投書の水帳によると西福田辺りは大部分池川で、志水家では自分人足でこのあたりの池川を埋め立て、田畑106町4反1畝28歩を開拓したのが西福田新田である。享和二年(1802)春、戸田川を西福田東端にて締切り、茶屋新田と茶屋後新田の境を開削し新に川筋を設けた。川替の担当者は大字福田の二村清左衛門が開削したという。この新田は当時、海東分、戸田分、蟹江分と別れていて、海東分、戸田分は戸田川以西、福田川までをいい、蟹江分は福田以西を呼称した。舟渡しは東福田と同じく、自分渡しで使用料を支払い自分で漕いで渡ったとある。

新田の地名に「古墳」という小字があるが、湊場で江岸につなぐ網役をつとめた家柄が、百姓の暇に漁事をもしていたという。福田新田開発の時、西福田南填を湊場に拡張し、更に、茶屋後新田開発の時、その西堤に振替え、その後寛政八年(1796)二つ寺井筋普請に付、西福田机掘り下げとなり、湊札内になうて漁業に差し支えのため、願により机先茶屋後新田西堤にて湊を受取り漁事をつづけたという。

南陽村が合併までは網役であった服部家を通称「湊」と呼んでいた。

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