名古屋市港区の干拓(新田)について(10)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 茶屋後新田について

延宝五年(1677)茶屋長以が開発者この頃になると茶屋家の朱印船貿易の余録もなくなり、本来の戦争の際の呉服物(陣旗、兵士の下着類)の需要もなく、平時の呉服販売も天保の改革の前夜ともなればこれ亦、需要が底をつくなかでの新田開発も予想外の暴風の被害がかさなり不作ならばさすがの茶屋新田も傾きかければ内輪不如意となり、名古屋の関戸家よりこの新田を抵当として金を借入したが、その返済が出来ずに文化八年(1811)にこの新田の三分の二所有権を関戸家に移し、借金を返済したが、なお残りの三分の一は名古屋の伊藤忠左衛門(川伊藤)の所有となり、その後、明治初年になり、すべてが関戸家の所有に変った。開発年次不詳の新田西端に戸田川と福田川の河口があり、当新田西堤防は西福田境まで潮が入る川であったが、戸田川の川筋替と福田川の河口を西南隅より下げ、内川として堤防を西に築き替えたので、現在の神明社西側高地より南、地蔵堂高地に至るまでは旧堤防の敷地であった。 この新田は日光川に沿い、低湿地にして排水が自由にならず、年々冠水の害を被り、収穫の減損も甚だしく、作人の困憊がその極みに達したので、地主関戸家はその救済策として西南隅に排水機を設置し塩害を防いだ。そのためか収穫も倍増し、更に近年土地改良事情が進歩し、用悪水路の改良と排水機の改築がなされている。

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