名古屋市港区の干拓(新田)について(11)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 土古山新田について

元文五年(一七四〇)に海東郡蟹江村の鈴木新助が御為金500両を藩に上納して開発した一種の請負新田である。発起人は鈴木新助だが、他に出資者として成瀬氏が居た。隼人正の控地の熱田新田前の西山手前より新田を取立願があったので、その喪山の土古山辺を開墾させた。
土古山新田は明治五年四月二日名古屋県が愛知縣となり、同年九月二十九日小碓村は第二大区第五小区に属し、土古山新田は他の村と合併んで小碓村に入った。その後、明治十一年七月に、熱田新田西組となり、明治二十四年四月に明徳村に属した。更に明徳村は明治四十年七月十六日に名古屋市に編入した。開拓当時は高さ二二尺の堤防沿いにならんで家が建てられた。
明治六年の学制で第三十九番小学当知学校が開校。明治二十二年明億村の大字となる。
氏神は八剣社。 なお、この新田は成瀬隼人正の控地で、開発のとき、成瀬家より、新助に与えた澄状によれば新田開発は五十町歩になっている。これは給人が薄に請願して新田を開発した典型的なものである。
かように新田の給人が請控となるのが普通である.。請控とは給地に附属する蔵人地をその給人に寄託することであり、給人は小額の年貢を上納することになる。この土古山新田も成瀬家の請控となっていた。明治初年では土古山新田村にして、小字名に屋敷地、西百聞通、西中田、前中田があった。明治二十二年十月には当地新田、熱田新田西組と共に明徳村になった。

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