名古屋市港区の干拓(新田)について(12)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 藤高新田について
寛政九年(一七九七)に福田村西川弥市の開発であるが、海に近いため、幾度か暴風で破堤し、所有者の変動が激しいところであった。一名、弥市新田とも言う。
戦前までは「おんか祭り」といって、平家の猛将、平景清の姿を画いたのんぼりを先頭に太鼓を鳴らして、田の蛾などを追いながら子どもを中心にした行列を夏場にした。萱津村あたりより村送り行列は福田村に入り、茶屋新田村から藤高新田へと北から南へ笛、太鼓の音もにぎやかに掛声と共に藤高前新田へ、戦時中はそんな余裕も農村にはなくなりやめてしまった。
この新田の開発工費の一部は名古屋、大船町の伊藤忠左衛門より借入されたものであったため、西川家の不如意から、伊藤家へ売却されている。神社は神明社、寺院は喚応寺(曹洞宗)と桂花庵(浄土宗)、伊勢湾台風で一時中断した神楽一式は藤前神明社に保存されている。
明治二十二年に茶屋村、明治三十九年南陽村、昭和二十四年南陽町、昭和三十年から港区となる。明治八年に蘭風学校から分かれて藤高学校が開校、明治二十二年茶屋尋常小学校となった。

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