名古屋市港区の干拓(新田)について(13)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 藤高前新田について(1)
文政五年(1822)に伊藤喜左衛門によって開発され、藤高新田の南方に位置し、通称「藤前」と呼称されていた。当時は一円蔵入地で、新田の南が汐溜で広い遊水池で、養魚場や釣場になっていた。新田の堤防の外側は千鳥と呼ばれる砂地、名の如く渡り鳥の生息地となっている。戦前は潮干狩りの良場で、新田が開発された頃は採れた貝は熱田の市場に出荷されていた。農作業は専ら農舟が使用され、新川、日光川に挟まれた低地帯のため、早くから水害対策が施され、堤防に水屋を建てたり、藤高新田の耕作地の約三割を入作していた。明治二十二年茶屋村の大字となり、明治三十九年に南陽村、昭和二十四年に南陽町、更に昭和三十年から名古屋市港区となる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)