名古屋市港区の干拓(新田)について(16)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 福田新田について

寛永十七年から二十年にかけて豪農鬼頭勘兵衛景義によって開発された。新田の中央を流れる戸田川を境に東福田と西福田に分かれていた。 家数一三八、人数七三八、牛馬四六、川運上代や堤枯草代、柳代銀、舟船、佐屋路の万場の助郷などを村民が負担してかなり重税であった。地主が鬼頭家が殆ど専有していた。
新川堤の西が入津になっていて、東福田新田の知多屋敷まで、東西に民家が連なっていた。この道が明治になって東海道筋となり、熱田と桑名を結ぶ主要道路となって活用された。又この辺り灰問屋が二戸あって知多浦より波不知船が来て灰を積み出していたという。又新田は殆ど湿田で、農舟が唯一の交通機関であったという。新川に袈かる両部橋の辺に、当時は渡し舟が運賃一人三文を支払っていた。但し、船頭は居なく自分渡しで、使用者は運賃箱に各自は支払っていたと言う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)