名古屋市港区の干拓(新田)について(18)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 茶屋新田について

寛文三年(1663)より寛文九年(1669)の間で茶屋長以によって開発された。茶屋家は慶安年間(1648~52)尾州茶屋家として初代新四郎長吉(法名長意)より始まる。長意は徳川家康の菩提をとむらうため位牌所として等覚院日富を開基として、通化院日境を開山に迎えて源頂山情妙寺を建立した。長意の子二代目茶屋四郎次郎清延の法名情延日実、母妙情日寿の各一字をとって寺号とした。(東区筒井町所在)代目孫四郎俊胤も法名が長意である。
尾洲茶屋家は江戸茶屋、京茶屋と並び玉来印船貿易を営み繁栄し、尾張でも政商の名が高く、初代長意が茶屋新田、二代長以が茶屋後新田を開発経営した。茶屋後新田は開発した延宝五年(1677)当初は二代目長以の所有であったが、水害など負債がかさなり、九代目長与の明治初年頃に関戸家の所有となった。茶屋新田は付近の新田より低地であったので、水害に遭い、滞水害にしばしば遭った。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)