濃尾平野の地史(18)

熱田層の堆積後、海面が下がり始めたころに熱田面中にきざみ込まれた河床面は、名古屋市内の熱田台地の中央を南北に貫く溝状の低地として残っている。この低地の地形面は大曽根面と呼ぶ。
大曽根面は、熱田台地の北縁の大曽根付近から、東新町、堀田へと続いている。
千種区と守山区の境にあたる、矢田川と香流川にはさまれた猪子石原は、下流側の西端で海抜30m、上流の東端で45mの高さを示す高い段丘地となっている。この段丘上の猪子石原面も大曽根面とほぼ同じ時期にできた旧矢田川の河床面と考えられる。
その他、北方の春日井市から小牧市を経て犬山付近までつづく広い段丘面は小牧面と呼ばれている。この段丘面は、春日井付近で20mから40mほどの高さを示す。
この付近の小牧面は、旧木曽川と旧庄内川の合流付近で作られた川床面、もしくは氾濫原の名残である。おそらくこの小牧面も名古屋市内の大曽根面とほぼ同じ時期に形成されたものであろう。
小牧面は、犬山付近で、御嶽火山から流出した木曽川泥流におおわれている。この泥流時代は2.6~2.7万年前ということがわかっている。
沖積世海進、とくに縄文海進によって、5000~6000年前の伊勢湾が、現在の海岸線から40㎞も内陸の大垣市や木曽川町の辺りまで侵入し、今日の海抜5m等高線の付近に当時の海岸線があったことは、濃尾平野を横切る東海道新幹線や濃尾大橋などの基礎地盤調査による海棲の買いからも推定される。
濃尾平野には様々な貝塚や遺跡が発見されている。濃尾平野の最奥の養老山麓には、海棲の貝を含む貝塚である庭田貝塚がある。 熱田台地の北端にあるのは長久寺貝塚(東区長久寺)。弥生前期には、西区貝田町の西志賀遺跡、東海地方で最も古い弥生式遺跡は西春日井郡清洲町の朝日貝塚、海部郡甚目寺町の福田遺跡などがある。この福田遺跡は、海抜2.5m内外にある弥生式中期・後期の遺跡で、西暦10世紀頃まで海岸に近かった。
この他に、尾張の西部には御払遺跡(一宮市萩原)や四郷遺跡(岐阜県輪之内町)などがある。この四郷遺跡は典型的な輪中地帯にある唯一の弥生式遺跡である。
注意されるのは、前述の西志賀遺跡など濃尾平野東部の弥生式貝塚が、標高3~4mという比較的高い位置にあるのに対して、西部では四郷遺跡の場合など、ほとんど現海面に等しい高さにあることである。これは濃尾平野の西方に傾く傾動運動によるものと考えられ、同平野西部の沈降運動がその方面を恒常的な湿地とし、そこに低湿地の堆積層である上部泥層を5mにも及ぶ暑さに堆積したことが推定される。

濃尾平野の地史(17)

第1粘土層は熱田層最上部付近にあり,厚さは2~3m以下で中央部から台地西部にかけて分布している。
これらの粘土層の間には砂層が堆積している。この粘土層と砂層が交互する堆積相の変化がそれぞれ直接海面の変動に結びついていたとは結論づけられないまでも、熱田層上部を堆積した海ほ前進と後退を繰り返したことがうかがわれる。
砂層には浅海または海浜で堆積したと考えられる中~細粒の粒度のよくそろったものから、かなり海岸線が後退したあとに形成された三角州ないしは比較的粗粒の河床性のものまでが含まれている。また砂層中には帯状につながった砂れき層がはさまれている。これは海側に成長する三角州を追ってのびた河川の河床れきと考えられる。この帯状の砂れき層は、その横断面ではレンズ状をなして砂層中にあらわれる。
このような粗粒物が水平的な広がりをもたずに砂層中に帯状をなしてはさまれているのは、比較的急速に堆積が進んだことを示している。また、上部層中の砂層は御嶽火山の放出物である火山岩片の砂粒を多量に含んでいる。これらの火山岩片は風化して容易に粘土化してしまうため、地表付近などで風化した部分はやわらかく、一般に上位の砂になるほど次第にゆるくなる傾向がある。

濃尾平野の地史(16)

第4粘土層は名古屋市の中部以西および南部に発達し、分布深度は台地の北東部で海抜Om付近に南および西部でほ-30m付近に分布する。
中部以東ではレンズ状に断続する。南西部では下位の第5粘土層と連続し、この粘土層中にも海にすむ貝の化石が発見されるが、中・北部では海成層という証拠に乏しい。
この粘土層は一般に過圧密で硬く、おそらくこの第4粘土層の堆積後に海面低下期があり、つぎの上部層が堆積するまでの間に小さな不整合があったらしい。
熱田層上部は第4粘土層直上の砂層から上位の熱田層をいう。この第4粘土層より上位の砂層は後述のように浮石や火山岩片を含み、下部層の花こう質の砂とおもむきを異にしている。
第3粘土層は、厚さの膨紡がはなはだしく、レンズ状に途切れたり2層にわかれたりするが、ほぼ全域に追跡される粘土層である。その厚さほ最高10m近くに達することもあるが、
一般には数メートル前後である。この粘土層の分布深度は西部では海面下20m前後、市内中央部でOm付近、中央部以東および以北では薄くなって消滅しているが、その層準は、海抜数メートルから10m前後の位置にあると考えられる。粘土層中にほ海棲の貝化石はほとんど認められず、腐植物に富み海水に淡水のまじったような沼沢地の堆積物と考えられる。
この粘土層は台地中央部以西では連続性を増す。
第2粘土層は局部的に発達するにすぎず、厚さも2~4mを越えない。

濃尾平野の地史(15)

熱田層は砂と粘土層の互層で、全体の厚さは最高60mにも達する。粘土層は上から数えて5枚存在する。いちばん下の第5粘土層はとくに厚く、この粘土層と第4粘土層以下の部分で熱田層のほぼ下半部を占めている。これを熱田層下部と称し、それ以上の砂と粘土の互層を熱田層上部と称する。
熱田層下部は,熱田海進期に堆積した厚い海成の第5粘土層を主体としている。この下部層は、名古屋市内では海面下10~40mの深さに分布するが、名古屋市の西および南部から濃尾平野にかけて厚くなり、30mを越えるようになる。浪尾平野の傾動運動の影響も受けて、西にいくに従って分布深度も深くなり、弥富町付近でほ海面下80~120mの範囲こ存在する。この付近ではさらに第5粘土層の下位に、おそらくは熱田期の海進の先駆的堆積物と考えられる砂と粘土の互層が10~20mほど存在する。
一方、東方の名古畳市内では、第5粘土層は直接八事層または矢田川累層上に形成された波食面状のなだらかな面上にのっており、1~2mの薄層になってしまうところもある。第5粘土層直上の砂は花こう質ないし石英質の砂で、第4粘土層以上の砂とかなり成分が異なっている。この砂層はよくしまっておりN値も30以上50前後の値を示す。大曽根付近から笹島にかける帯状の地域は、かつての川すじにあたるためか、この層準は砂れき層となっている。また、南部地域から濃尾平野にかけて、この層準の砂層は欠けて第5粘土層上に直接上位の第4粘土層が重なるようである。

濃尾平野の地史(14)

熱田台地と熱田層

熱田台地は名古畳市の東側に分布する東部丘陵の西縁をとりまくように分布し、その主体は名古屋市の中心部を占めている。
熱田台地は海抜20mから10m前後の高さを示す平たんな台地である。名古屋城はこの台地の西北端に、足下に広がる沖積平地を見下ろす位置に築かれており、また、その西南端には熱田の宮がある。熱田台地上の平たん面は熱田層の堆積面で、もとは水平であったものが、濃尾平野の候動運動に伴って西ないし西南西方向に傾いた。この熱田台地は、熱田層堆積後の海面低下期に河川の浸食作用からけずり残されて台地化したものである。したがって、熱田台地を構成するものは本来熱田層である。

熱田台地中央部を南北に貫く低地は大曽根面で、ここには大曽根層が薄くのっている。熱田層は初め台地周辺部の地表で観察できる部分に対して名づけられたものであるが、最近では多数のボーリング資料から台地の地下の部分や、沖積平野の沖積層の下に埋
もれている熱田層についても多くの事実が明らかにされ、熱田層の全貌がわかってきた。

濃尾平野の地史(13)

氷期や間氷期のように気候変化のあったことが洪積世の特質である。
最終氷期のヴュルム氷期中には,比較的温度の高かった亜間氷期がいくつか含まれている。この比較的温暖だった亜間氷期には海水も上昇した。熱田層の下部が堆積した後、海は一度大きく退いたが、この亜間氷期の時代に、沈降しつつあった濃尾平野地域には浅海域や三角州が形成された。
この時期に堆積した地層が熱田層上部である。この時期には御嶽火山の新期火山活動があり、当時の堆積物中にはその火山活動によって放出された浮石(軽石)などの火山物質が含まれ、堆積物の時代を知るために役立っている。熱田層の最上部付近には、この御嶽火山の第三浮石が含まれており、その年代は約3.5万年前と考えられている。
熱田層の堆積が終了したとき、堆積物の表面となった堆積面、すなわちその当時の沖積平野の面は現在の熱田台地上の平たんな地形面として残っており、熱田面と呼ばれている。

濃尾平野の地史(12)

熱田期の海進と熱田層
八事期をすぎると、名古畳市域をはじめ濃尾平野の大部分は陸地となった。
この時期の海岸ほ少なくとも現在の伊勢湾よりはるか外側まで退いてしまった。いままでの堆積地には新たに河谷がきざまれ、丘陵や台地となっていった。
この時期の海の後退、つまり海面の低下ほ洪積世の終りから2番目の氷期(リス氷期)のできごとであろう。
こうして干上っでしまった伊勢湾や濃尾平野地域に、ふたたび海水が進入してくる。これは、リス氷期の終りとともに、氷河地域の氷がとけ、ふたたび海水量が増え、次第に海面が高まってきたためである。このときの海は、伊勢湾から現在の濃尾平野地域の全域にまで広がった。この湾入した海の底には粘土層を主体とする地層が堆積した。この地層が熱田層下部である。この粘土層の中には、現在の伊勢湾にすむ内湾性の只の化石も含まれており、現在の伊勢湾に近い環境下にあったといえる。
つまり、この時代はリス氷期とつぎにやってくるヴュルム氷期とにはさまれた間氷期で、気候条件も現在のものに近く、かなり暖かかった。この海進のおきた間氷期の時代は
およそ20万年前から10万年ぐらい前までと考えられている。

濃尾平野の地史(11)

八事層は古生層のチャートのれきを90%以上も含んでおり、れき種のかたよる点でほ唐山層よりはなはだしい。その他のれきとしては石英斑岩、ホルンフェルス、泥岩、砂岩などがある。
チャートのれきの表面はかなり風化されている。このため地層全体として白い感じを与える。しかし砂れき層中にはさまれる砂層やシルト層は赤かっ色になっていることが多い。
砂層は長石が多く、花こう質である。地層の厚さほ瑞穂運動場付近で35mくらいであるが、濃尾平野の地下ではもっと厚くなる。
唐山層ほつねに八事層におおわれていて、唐山層独自の堆積面をもたない。両層が整合であるか不整合であるかに考えられる古生層が変成されてできたものであるから、内部の構造は美濃帯のものと似ている。
しかし濃尾平野の基盤として考えられるものは、中生代末に美濃帯、領家帯の境付近に貫入した新期の花こう岩であろう。瀬戸市付近に露出する花こう岩の絶対年令については、7300万年、6400万年という値が報告されている。
地下深所に貫入したこれらの花こう岩は、その後の隆起で表面の古生層は浸食、肖剥され、ついには花こう岩も地表に露出するに至った。隆起が止んでも風化や浸食は続いたので、山地は次第に低くなり、起伏の少ない平たんな地形となった。このときの地形を準平原というが、その後の隆起で、その一部は現在の愛知県東加茂郡、額田郡などの三河高原(三河隆起準平原)と呼ばれる平たん面となって残っている。

濃尾平野の地史(10)

八事期の地塊運動
第四紀のはじまりは全世界的な気候変化と一致する。洪積世になると気温が低下し、大陸には広大な氷冠がつくられ、海水準が低下した。東海湖は傾動運動を受けただけでなく、海面低下のために浸食の基準面も下がったので、浸食作用を被ることになった。断層で分断された東海湖の湖底は隆起して台地面となった。
濃尾平野における東海湖以後の洪積層は唐山層にはじまり、ついで八事層、熱田層となっている。唐山層と八事層の地質時代はまだ詳しくわかっていない。しかし海山層は矢田川累層に不整合で接したり、これをおおったりしているので、唐山層は矢田川累層のつくる台地を開析した川の扇状地れき層として堆積したものであろう。唐山層は石英斑岩のえきを主成分としており、しかも、れきの直径は名古屋で40cmに達することもあるはど大きい。
そのほかにはチャート、ホルンフェルス、砂岩、泥岩などのれきが含まれるが、石英斑岩のれきほど大きくはない。チャート以外のれきは著しく風化され、いわゆる”くさりれき”となっている。このため地層は全体として赤かっ色の感じを与え、スコップで削ることができるくらいの強度の部分もある。れき層の厚さは最大約10mであるが、その上に厚さ2mくらいのシルト層ないし砂層がある。上部のシルト層の一部は白い火山灰層になっている。

濃尾平野の地史(9)

猪高相は昭和区天白町や千種区猪高町の丘陽に露出する地層で代表される。
砂れき層、砂層、シルト層の互層にわずかな火山灰層と亜炭層が伴う、前記の2相との主な差は砂れき層中に風化してくさりやすい白色のれきがかなり多く含まれること、風化して地層が赤かっ色ないし帯紫桃色となることなどである。
砂れき層はチャートのれきを成分とするが、白いれきのほかにシルト岩やホルンフェルスなどの円れきを含む。天白町でほはとんどシルト層をはさまず,厚さ20m近くなるところもある。猪高町より北ではれきはすくない。
千種区の平和公園北では砂層とシルト層とが互いに構に変化しているのが著しく目につく。

東海湖の歴史は静かな沈降によって,準平原の凹地に瀬戸陶土層が堆積するという段階から始まった。やがて地塊の傾動運動は激しくなり,後背地の急速な隆起が多量のれきを供給することになり、水野相が発達し、濃尾平野の沈降につれて盆地の中心部には泥と砂を主体とした尾張爽炭相の地層が厚く堆積した。洪積世に入ってから、全般的な上昇運動により、ふたたび砂やれきからなる猪高相が堆積し,東海湖は次第にうめたてられて消滅する。そして河川の浸食によって平たん化され、さらには丘陵化していく。養老山脈の東のふもとを走る養老断層、多治見市笠原の南から西南西に走る笠原断層、尾張と三河の境近くを南西に走る猿投・境川断層などが明確な形となって現われると、それまでの東海湖域はいくつかの盆地に分解していく。