名古屋市にある古民家の耐震補強

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08月

濃尾平野の地史(3)

第一瀬戸内期の濃尾平野

東北裏日本から現在の富士火山帯に連なる地域は、第三紀前半を通じて浸食され続けていたが、第三紀後半の中新世の初めになると急に沈降しはじめ、火山活動と堆積作用の地域となった。
これにややおくれて、西南日本内帯では、中央構造線の北に沿う地域と、北陸から山陰にかけての地域とが沈降し,堆積作用の行なわれる区域となった。このうち、中央構造線に沿う地域は、堆積の範囲と環境とが現在の瀬戸内海と似ているので、瀬戸内区と呼ばれている。また瀬戸内区の中新世の地層の堆積した時期を第一瀬戸内期と呼んでいる。
第一瀬戸内期には、鳳来寺山を含む設楽盆地、岐阜県東南部の瑞浪盆地、知多半島南端、三重県の一志盆地などに堆積盆地が生じて、暖い浅海の堆積物がたまった。濃尾平野の周縁地域の瑞浪、知多半島南端、三重県菰野町付近、豊田市猿投町八草付近で海成の中新世の地層が露出している。

また濃尾平野内部では深いボーリングによって、海成の中新世の地層がみつかっている。知多半島基部の大府町内の深層ボーリングでは、知多半島南端の中新世の地層ときわめてよく似た頁岩が只化石を含んだままで採集された。
三重県菰野町付近の中新世の千種層は瑞浪盆地の地層とよく似た岩相と化石をもっている。これらの事実から濃尾平野の地下にある第一瀬戸内期の地層を推定すれば、砂岩・泥岩の互層に凝灰岩を伴う浅海の堆積物がゆるやかな傾斜で広がっているであろう。
ただし、鮮新層が撓曲や断層で変形しているところでは、そのさらに下位にある中新世の地層も断層運動などで複雑な構造をつくっているであろう。中新世の末頃、第一瀬戸内期の各堆積盆地は地殻変動により、単純な変形作用を受けて隆起した。
中新世に堆積した地層中には、暖かい浅海の底にすむ動物の化石が含まれ、それらの堆積盆地はたがいによく連絡した海であったらしい。

濃尾平野の地史(2)

基盤岩類-2

美濃帯は、砂岩、頁岩、れき岩チャートを主とする古生層から構成され、石灰岩や輝線凝灰岩は少ない。
濃尾平野の北と西に露出する赤坂、伊吹、藤原の石灰岩は山頂部を占めており、他の帯から南へ移動してきたものと主張する学者もいる。これらの山頂にある石灰岩を主とする部分は秋吉相と呼ばれている。石灰岩以外に化石はみられないが、これらの地層ほたいてい二畳紀層で、石炭紀層は少ない。また化石はフズリナなどの有孔虫やサンゴ、腕足貝を主とするが、いずれも浅く暖い海のものである。岐阜市北方の低い山地では、かたいチャートが突き出して山稜をつくっているが、その慣斜は,複雑な褶曲のために変化がはなはだしい。花こう岩の貫入を被った部分は熱変成作用を受けて、ホルンフェルスとなっている。
領家帯は片麻岩と花こう岩とが複雑にいりくんだ構造をもっているが、片麻岩はもともと美濃帯と連続していたと考えられる古生層が変成されてできたものであるから、内部の構造は美濃帯のものと似ている。しかし濃尾平野の基盤として考えられるものは、中生代末に美濃帯、領家帯の境付近に貫入した新期の花こう岩であろう。瀬戸市付近に露出する花こう岩の絶対年令については、7300万年、6400万年という値が報告されている。

地下深い所に貫入したこれらの花こう岩は,その後の隆起で表面の古生層は浸食、削剥され、ついには花こう岩も地表に露出するに至った。隆起が止んでも風化や浸食は続いたので、山地は次第に低くなり、起伏の少ない平たんな地形となった。このときの地形を準平原というが、その後の隆起で、その-部は現在の愛知県東加茂都,額田郡などの三河高原(三河隆起準平原)と呼ばれる平たん面となって残っている。

濃尾平野の地史(1)

基盤岩類-1

地質学でいう基盤は古生代よりも古い地質時代の岩石で構成されている。濃尾平野の生いたちを考えるうえでは、古生層・花こう岩に第三紀層も加えたものを地質構成上の基盤とみることができる。 濃尾平野は西南日本内帯の東部に属している。西南日本ほ中央構造線と呼ばれる大断層帯によって内帯と外帯とに分けられる。外帯には三波川帯、秩父帯、三宝山帯、四万十北帯、四万十南帯がが並び、内帯には領家帯、美濃帯、三群帯、飛騨帯があって、中生代末の花こう岩がこれらを貫いている。 古生代から中生代にかけて存在していた本州地向斜に堆積した海成層は、中生代後期までに地殻変動をうけ、変成帯をつくった。

この変成帯の軸部を構成するものが三波川帯の結晶片岩と債家帯の片麻岩と花こう岩である。軸部の両側に未変成のまま残った古生層がいわゆる秩父古生層である。三波川帯、領家帯の関係と似た関係にあるのが三群帯,飛騨帯であるが、飛騨帯などは領家帯などよりさらに1億年以上も古い別の変成帯を構成している。 濃尾平野の大部分は古生層の美濃帯の上にあり,一部が領家帯の上にある。両帯とも中生代末までに褶曲を終え、花こう岩も貫入したので、これ以上は褶曲できない状況になってしまった。そこで第三紀層の堆積前には二次的な基盤が完成していたといえる。

濃尾平野では第三紀前半の地層ほ堆積していない。第三紀後半の地層ほ著しい褶曲運動受けていないから,第三紀以前の地層や岩石と第三紀後半以後の新生代の地層との強度の差ほ大きい。しかし新生代のうちでも、第三紀層と第四紀層とでは、地層の強度に差があり,建築物や構築物の基礎として第三紀層を含めて基盤と考えてもよいであろう。

愛知県古民家の特徴について(30)

明治29年の牧田川・揖斐川・長良川・木曽川の大洪水で輪中の被害が最大であった様子が分かる。鈴村ソトム氏の『岐阜県輪中地帯、主として羽島郡、養老郡に於ける水害対策の概況』(日本建築学会)によれば、大垣市南部や安八郡の輪中は浸水が天井より二階上に至り、海津郡に属する地方では平均して鴨居の位置である。羽島郡に於ては正木村(現羽島市正木町)以南は地上6~9尺(1.8~2.7m)位の浸水、それ以北の地方(現柳津町)は床上浸水1~4尺程度であったと報告されている。城戸久博士の『城と民家』(毎日新聞社)によっても同様である。これらの位置から、さらに南下した愛知県側の立田村(立田輪中)、弥富町(五明輪中・森津輪中)に至っては、総ての家々が鴨居以上に浸水の被害を受けたことが推測できるのである。
水屋には、倉と名付けられるもの、離れ屋・住居と名付けられるもの、倉と臨時住居と名付けることのできるものがある。これを中沢弁次郎氏は『輪中集落地誌』に、米倉式水屋、高座敷式水屋、水屋式住居の3つに区別している。以上を総合してみても、特に格式ある場合は別として、一般には江戸末から明治初期にかけて普及した水屋と考えられるのである。