濃尾平野の地史(7)

れきの種類はチャートがもっとも多く、古生層の砂岩、ホルンフェルス、石英斑岩がこれに次ぎ、シルト岩のれきもあるが、花こう岩のれきほきわめて少ない。場所によっては砂岩のれきが多くなったり、ホルンフェルスのれきが目立ったりするが、チャートのれきより他のれきが多くなることはあまりない。チャートのれきがきわめて多いときは第四紀の八事層と似てくる。れきの直径は6cmくらいのことが多いが、チャートのれきは他のれきより小さいのが普通である。石英斑岩のれきはもっとも大きいれきとなって含まれることが多い。チャートのれきはあまり風化されていないが、他のれきほ多少とも風化が進み、スコップで削ることのできるものがある。
瀬戸市付近では、シルト層がれき層中に5枚以上みとめられておりよく連続するが、南部ではあまり多く、厚くもない。シルト層の厚さは10mに達することもあるが、2~4mが普通である。瀬戸市森林公園では、れきが次第に砂にうつりかわっている。また、ここでは水野相の厚さは65mをこえるが、瀬戸市陣屋付近では20mにすぎず、東方に向かって薄くなる。西方に向かっては水野相は尾張夾炭相に移り変わっていく。

濃尾平野の地史(6)

瀬戸陶土層は東海湖の周縁部に分布し、東海湖初期の堆積物である。前記のように、小起伏面上の凹地に堆積したけい砂や粘土層のほかに-部に砂利層もある。亜炭層直下の粘土は耐火材料として使用されている。
矢田川累層は瀬戸層群の大部分を占める地層で、れき層・砂層、シルト層を主体とし、火山灰層や亜炭層も伴っている。大観すれば、下部と上部とに砂れき層が多く、中は砂層と粘土層とが多い。
下部の砂れきの多い部分を水野相といい、中部の砂とシルトの多い部分を尾張用炭相上部の砂れきの多い部分を猪高相と呼んでいる。しかし水野相のあるれき層をどこまでも追跡すると、れき層中のれきが次第に減って砂が多くなり、
いつのまにか砂層とれき層とがくりかえす互層あるいは砂層だけになってしまうことがある。つまり水野相と呼ばれている地層群が水野相の特色を失って、尾張夾炭相へ移化している。その移化する方向は上下ばかりではなく、横方向にも変わるので、水野相が尾張夾炭相の下にあるとは必ずしもいいきれない。
水野相はチャートのれきを主成分とするれき層にシルト層が伴うもので、瀬戸市水野では広く分布している。下位の陶土層を不整合におおうことが多いが、陶土層から由来した物質が多量に混入して、陶土層とあまり差のない地層を含むこともある。

濃尾平野の地史(5)

濃尾平野、伊勢湾は約100kmを1辺とする地塊として、西側が沈降し、東側が相対的に上昇する傾動運動を行なった。
この沈降部の西縁は鈴鹿山脈のふもとを南北に走る一志断層であるが、この断層は1本の単純な断層ではない。
多数の断層が雁行状に配列し,その間は単なる急傾斜帯となっていることもある。養老山脈はこの地塊の端にある小地塊と言え、さらにこの地塊も小塊に分けて考えることができる。巨視的には、西部が沈下する大きい傾動地塊の西側にできた堆積地区が濃尾平野である。
鮮新世後半の濃尾平野・伊勢湾地域に形成された堆積盆地にほ海成層はみられないので、この堆積盆地を東海湖と呼んでいる。
東海湖ほ鮮新世半ばから洪積世前期まで沈降を継続し、西部ではその時期の沈降量は1000mをこえた。三重県ではこの堆積物を奄芸層群と呼び、名古屋付近では瀬戸層群と呼んでいる。
瀬戸層群は瀬戸陶土層と矢田川累層とに分けられている

濃尾平野の地史(4)

第二瀬戸内期以後の濃尾平野

鮮新世に入ると、日本列島に進入していた海はかなり退き、瀬戸内区の中新世の堆積盆地群は陸化した。鮮新世後半になって再び堆積作用が始まる。この時期を第二瀬戸内期と呼ばれている。
陸化期に花こう岩類の露出する山地は風化、浸食され、中国地方でほ再び準平原化作用が行なわれたと主張する学者がいる。
濃尾平野でも、この2度目の準平原の存在を積極的に主張する証拠が少なくない。瀬戸や多治見の陶土層はこのような時期の堆積物とみられている。つまり,長期間の風化で石英以外の鉱物はほとんどすべて分解されて粘土や溶解物となり、小起伏の準平原の凹地にはこれらの風化物がたまり、石英はけい砂層をつくり、粘土は陶土層をつくったのである。
鮮新世に入って、瀬戸内区は再び沈降を始め、浸食地域から堆積地域に転化した。こうして第二瀬戸内期に入った瀬戸内区の基盤の運動は、第一瀬戸内期に比べて明瞭な差異があらわれる。
それは基盤の傾動運動で、瀬戸内区はこの傾動運動によって山地と盆地に分けられていった。