名古屋市古民家耐震の参考として
愛知県名古屋市港区干拓地 神宮寺新田について
文化十四年(1817)に開発され、熱田神宮の神宮寺の名を借りれば新田の開発の許可が藩より認められ易いので「神宮寺名義拝借新田」として申請、開発された新田であるので、その名をつけた。熱田神宮のもとの神宮寺とは愛梁院、不動院、医王院で、その名を借りたという。一村とみとめられるのは明治十一年宝神新田の一部となった以後である。
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〒455-0066 愛知県名古屋市港区寛政町5丁目9番地
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愛知県名古屋市港区干拓地 神宮寺新田について
文化十四年(1817)に開発され、熱田神宮の神宮寺の名を借りれば新田の開発の許可が藩より認められ易いので「神宮寺名義拝借新田」として申請、開発された新田であるので、その名をつけた。熱田神宮のもとの神宮寺とは愛梁院、不動院、医王院で、その名を借りたという。一村とみとめられるのは明治十一年宝神新田の一部となった以後である。
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愛知県名古屋市港区干拓地 小川新田について
寛政九年(1797)に十四山村の佐藤五兵衛が開拓。当初は福田新田又は竹田新田といっていたが、文化二年(1805)十一月に小川新田と改称した。豪商水口屋小川伝兵衛に売却された結果である。その頃、寛政・享和年間には日光川の堤防が度重ねて破壌され、その出費がかさんだのが原因である。
新田内の用水はニッ寺井筋から引く茶屋新田の余水を用いた。当時家が一軒で六人が居住していた。一村とみられるようになったのは明治二十二年茶屋村の大字となった以後である。堤防の決壊原因はそこに堆積する筈の土砂がなかなかとどまらなかったためだと言われている。戸田川と日光川の合流地点であった。
昭和十九年の東南海地震以後、地盤沈下が激しいため、水利用の合理化、代替水の確保と共に揚水規制などの対策がとられいる。日光川沿いは蔑生えが多いところで昔は洲が出来易いようであった。新田開発には手頃の場であったようだ。川蟹が群がっていたという。
水口屋はもともと近世中期に農村から名古屋に出てきた新興商人であった。祖先は大阪夏の陣後、山城国井手里玉水村に住し、天禄十年(一六九七)名古屋・玉屋町に移住、正し徳二年(一七一二)正月から呉服商人、小間物商を始め、天文五年から天明八年迄は商運に恵まれ、しかしその後、文化七年(1810)衰微し遂に廃業となった。水口屋は熱田前新田の南の割をも所有していた。封建社会において最も意義あることは土地と農民の支配である。商人は金銭を以ってそれに参与することが出来、新田を所有することは領主と同じく所有権を有することであり、所有する新田で働く農民たちを支配することは商人にとっては大きな魅力でもあった。物心両面の安定を求めようとする商人の姿がそこに浮彫りされていた。
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愛知県名古屋市港区干拓地 七島新田について
天明八年(一七八八)に下之一色村の木村権左衛門が開発した新田で、四町歩ほどで港区内では最小の規模であった。
一説によれば開発以前は新川の東側まで及ぶ島であったという。開発後も木村氏が在住。
文化八年(1811)に名古屋の大船町堀川端の伊藤忠左衛門の所有となる。神明社が氏神で、寺は明治六年開基の日蓮宗寂光寺がある。明治二十二年に茶屋村、明治三十九年南陽村、昭和二十四年南陽町、昭和三十年以後名古屋市港区となる。昭和三十四年には農地が甚大な被害を受けた。昭和五十年には藤高土地改良事業が始まり、七島排水所が設置され、湿田の乾田化が促進され二毛作も可能になった。神事芸能として神楽が保存されている。
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愛知県名古屋市港区干拓地 山藤新田、元美新田について
文化十四年(一八一七)に戸田村(中川区)の山田弾六と宮町(中区)藤川屋伊藤九郎助らによって開発された。山藤新田は山と藤の開発者の頭文字をとって名付けた。
山藤、元美の両新田は明治九年に神宮寺新田、宝来新田と共に合併され、宝神新田と称された。その後、明治二十二年に、甚兵衛後新田、熱田前新田、稲永新田と合併、寛政村となる。
山藤新田は明治初年に戸長をしていた藤川屋の先祖と戸田の山田弾六家とは親戚同志の間柄であったので共同出資が出来た。
但し、神宮寺新田、山藤新田、元美新田の開発者は数人の合同施行となっている。検地帳の持分では藤川屋が筆頭で、他に戸田村の山田弾六、名古屋鉄砲町永楽屋伝右衛門、長須賀村岡田山例蔵の順になっている。
なお、藤川屋の由緒は伊藤九八郎と号す。勢洲長嶋に居住し、同姓舎弟九郎助が分家して、長嶋より尾洲葉栗郡黒田の郷に移住。其後寛永年中、黒田村より名古屋宮町に移り、当時九代相続す。且つ累代、町代役を相勤む (酒造家) とある。
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愛知県名古屋市港区干拓地 作良新田(熱田築地前新田)について
作良新田(熱田築地前新田)その他、字名として、裏畑、平畑 イノ割、ロノ割、ハノ割、二ノ割(関戸文書より)註、「中填築禿」 とは新田中央の填で禿地で不毛を意味する。「蒲生」は文字どおり蒲の群生地。「江堀禿」 は新田内の用水路を指す。共に不作地。
この新田はもと天保八年 (1837) に薄地方勘定所の直営で、開発に一万六千六百両を調達したといわれるが、嘉永六年(1853) に伊藤次郎左衛門、内田忠蔵と共に御用達商人の首座を占めした信濃屋関戸哲太郎の三家所謂「名古屋三家衆」によって藩より引継れた。文久元年(1861)に作良新田と改称された。関戸氏の祖は関戸信忠といって、岩倉方の織田信安の家臣であった。岩倉落城後、春日井郡小木村に隠棲していたが、孫の五兵衛の代に寛永未年(1644)信濃屋といい、明和八年(1771)に曽孫五兵衛の代に関戸氏に復した。
その後、家業も転じて米穀、味噌を商い家運隆盛となった。
愛知県名古屋市港区干拓地 永徳新田について
稲富新田と同様、内海屋 (内田忠次郎) が開発したという。
熱田下総守熱田神宮の神官で、一種の名義貸であったようである。
内海屋は名古屋の豪商三人衆、伊藤家、関戸家と並ぶ投資家で、当地域には八ケ所ばかりの新田を所有していたそのうちのひとつがこの新田であった。
安政年間の台風で各地新田の堤防が決壊し、一時に負債を背負い込んで修復が出来ず、十三年間もこの新田は海水に浸っていた。慶応二年に岐阜在の投資家渡辺甚吉らが協力してやっと修復出来た。内海屋は既に破産明治二年の簿記録には荒地のため無税となっていた。明治十一年に稲永新田の一部となる。
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愛知県名古屋市港区干拓地 稲富新田について
文政三年(1820)に栗田兵部によって開発。荒子川の河口部にあたる。
内海屋(内田忠次郎)も開発資金を出したという。稲富の地名はもと「稲留」 だったという。
明治二年には荒廃地のため無税となったという記録もあり、明治九年に永徳新田と合併し、明治11年に稲永新田の一部となる。