愛知県古民家の特徴について(29)

輪中に現存する一般的な水屋構えは、およそ東南向に屋敷を構え、東側に主屋・西側に水屋が配置されたものが多い。屋敷を嵩上げし、さらに水屋の部分に石垣を積み上げ、桁行3間・梁間2間の土蔵または土蔵式の建造が一般である。現在、愛知県には数例が現存し、先の一般の水屋構えと同様な屋敷構えを持つが、水屋の建造された造成地が異なっている。

水屋部分の石垣を積み上げるまでは通常の水屋構えと同様である。石垣の規模も大きく高さも幾分高いが、建物(水屋)の下に船入場を設けて、洪水や雨水の溜で浸水を受けたときに、小舟の出入りができる場所が設けてある。この場合に水屋そのものは、先の土蔵と異なり、生活のできる離れ屋が建造されるのと、貯蔵と生活の両面に活用できる建造になっている。これら水屋の床板を自由に取り除くことのできるものであった。

愛知県古民家の特徴について(28)

水屋構えは、屋敷の嵩上げや特定の石垣を積み上げた造成地よりも、建物自体の天井裏(小屋組)を利用する工夫が初期的なものであったかも知れない。それは、尾張の中心部を流れる庄内川河口の日比津(名古屋市)に、平地住居で洪水対策としての農家が存在していた。

建造期は江戸末から明治初期あたりのものであったが、天井裏に貴重品や食糧および仏壇などを収納できる用意があった。しかも、小屋梁に滑車が固定され、緊急の事態に備えたものだと古老が語ってくれた。このことは、輪中における水屋の建物が比較的新しく、19世紀中期以降に建造されたと判断できるのが少なくなかった。また、この時期に建替えられたかも知れない。屋敷の周りに残る大槇の古木などから推定しても、樹令150年まで遡ることができるかなと思うところである。特殊な事例は、海部郡立田村(旧輪中)に谷口家があって、屋敷を1.5mほど嵩上げし18世紀中期ごろと判断できる鳥居建の直屋が存在している。しかし水屋は存在していない。

愛知県古民家の特徴について(27)

石垣を積んだ造成には、2つの形がある。水屋の床下に小舟が出入りできる船人が設けられ、水屋の床板を取って荷物や人の出入ができる構えがある。もう1つは石垣の外側
に登り口を設けて出入りのできる構えである。船入場を設けた構えは、各輪中で限られた格式のある農家に採用されていた。石垣の外側に登り口を設けた水屋構えは、通常にみられる一般の構えに少なくなかった。これらは江戸末以来の開拓・治水工事が一層に進展して、愛知県側では小河川や水路が整備され、加えて河川の上流にダム建設も手伝って、現在は輪中の様子や言葉を聞くことも少なくなった。

愛知県古民家の特徴について(26)

これについての薩摩藩士は直接工事を担当して、初期の工事で難渋をきわめ、数拾名の犠牲者を出している。このことは現在も各地に伝承され賞賛されている。延享年間以降の治水工事が除々に完備されることと平行して、耕作地や住居に安定感ができ、江戸中期あたりから次第に水屋構えが普及してきたのではあるまいか。それは治水工事が完成したと言っても、各河川の洪水を直接に受難することがなくなったと言うことで、各河川よりも低い耕作地や屋敷は、雨水の溜るのを防ぐことはできなかった。このために圦樋(水の出し入れする水門の樋)を設けて、被害を少なくする工夫がなされている。
このことから河川の川床と同等以上に屋敷を嵩上げし、さらに食糧や貴重品などを収納できる場所として、屋敷の一部に石垣を積み上げて高い地盤を造成し、土蔵式や離れ屋式の建造ができるようになったものと考えられる。この建物を水屋とか水屋構えと呼んでいる。

愛知県古民家の特徴について(25)

水屋形式

水屋形式については、明確に示す古い史資料は現在のところ発見されていない。水屋構えを裏付するものとして、輪中についての史料が多く残っている。岐阜県海津町史史料偏によれば、江戸時代の延享四年(1747)以来、文久元年(1861)までの1世紀強におよぶ治水工事の普請記録をみることができる。

木曽川・長良川・揖斐川の三川は、尾張(愛知)・美濃(岐阜)・伊勢(三重)の国境に位置する河口地域の低湿地帯(輪中)のことである。この輪中に構えた屋敷と家屋を水から守ることにある。農民が自然の猛威と戦い、経験と工夫から生れた屋敷と建物である。しかし、屋敷や建物の工夫が何時の時代から、どのようにして成立したかは不明である。先の史資料から判断すれば、治水工事が徳川幕府の直轄普請として延享年聞からおこり、単に農民だけの仕事で終るものではなかった。記録を分類すると、公儀・国役・手伝・領主・百姓自普請などに分けられ、中でも諸藩からの御手伝普請が34藩におよび、薩摩(鹿児島県)の普請石高は群をぬいて大きく、宝暦三年(1753)と文化十三年(1816)の二回となっている。

愛知県古民家の特徴について(24)

このような発達した間取りは、豊根村熊谷宅(武士)、設楽町岡松宅(庄屋)、東栄町伊藤宅(庄屋)などの関連があったものと考えられるが、その他の農家の格式は不明ながらも広縁を構えたのもみられる。豊根村の熊谷宅(武士)は、18世紀初期の建造と判断できるが、格式が高いだけに六間取りに広縁を構え長押を回している。その他は長押を回していない。18世紀末の設楽町岡松宅以降になると長押を採用するようになってくる。

間取形式では、18世紀建造と19世紀建造ともに大差のない形式が続いている。したがって、鳥居建や釜屋建のように広間型から広間三間取型に発展し、さらに四間取型(田ノ字型)に発達した変遷と異にするものである。また、広間三間取型も存在するが、喰違五間取型や整形五間取型に、または六間取型に直ちに発展したものか現在のところ、その発展過程を捉えるには今後の検討を待たなければならない。

愛知県古民家の特徴について(23)

間取り(平面)形式では、広間三間取型・六間取型(横型)・喰違五間取型・六間取型(縦型)・整形五間取型が現存している。これらの間取りは18世紀には成立していた形式であるが、船枻造だけに現存していた事例ではない。全く船枻造との関連が考えられない直家で、広間三間取型の設楽町鈴木儀一宅、六間取型の豊根村熊谷賢一宅と設楽町岡松貞一宅がみられた。

また、直屋に釜屋や厩が付設された(釜屋と称し、釜屋の屋根妻が主屋に差し込みになる)18世紀の喰違五間取型や整形五間取型も存在している。船枻造の間取りは、喰違五間取型と整形五間取型の18世紀の建造にみることができ、この両者の間取りが18世紀から19世紀(明治末)まで続いているのである。

以上の間取形式は、山間部でありながら大型で発達した構成になっている。例えば六間取型・喰違五間取型・整形五間取型などに広縁を設けた形は、18世紀における三河や尾張の平野部で見ることはできないが、遠江の浜松地方に雄踏町の中村清宅(重文)、浜松市の木村祐明宅にみられる武家住宅に類似する形式である。