濃尾平野の地史(8)

尾張夾炭相は亜炭を伴う灰緑色のシルト層を主とし、花こう質の砂層を従とし、火山灰層をはさむ。これは春日井市や名古屋市守山付近の丘陵地の尾張夾炭相を代表するものである。
濃尾平野地下の矢田川累層の大部分は尾張夾炭相となっており、地層は著しく厚くなっており、地域的な変化があるので、ここにかかげたものがすべての地域の尾張夾炭相を代表するものとはいえない。
たとえばシルト層中の亜炭は10枚を数えることもあるが、厚くなることは少ないらしい。亜炭層に伴って産出した植物化石により、矢田川累層の大部分の地質時代は鮮新世とされているが、植物化石の詳しい研究ほ発表されていない。
砂層の一部は砂利層に移行することがある。その中のれきほ主としてチャートで、水野相のものと大差はないが、風化してこわれやすい白色のれきを含むことがある。この種のれきが多くなると、砂利層は猪高相のものとよく似てくる。
上部のシルト層は緑色というより暗灰色で、細粒の砂をかなり含み、こまかい波状を呈する薄層理を示すことが多い。
火山灰層は浮石を含むものもあるが、一般に連続性に乏しい。主要な火山灰層は少なくとも3層あるが、重鉱物としては、少量の磁鉄鉱を含むだけで、他の重鉱物はきわめて少ない。

濃尾平野の地史(7)

れきの種類はチャートがもっとも多く、古生層の砂岩、ホルンフェルス、石英斑岩がこれに次ぎ、シルト岩のれきもあるが、花こう岩のれきほきわめて少ない。場所によっては砂岩のれきが多くなったり、ホルンフェルスのれきが目立ったりするが、チャートのれきより他のれきが多くなることはあまりない。チャートのれきがきわめて多いときは第四紀の八事層と似てくる。れきの直径は6cmくらいのことが多いが、チャートのれきは他のれきより小さいのが普通である。石英斑岩のれきはもっとも大きいれきとなって含まれることが多い。チャートのれきはあまり風化されていないが、他のれきほ多少とも風化が進み、スコップで削ることのできるものがある。
瀬戸市付近では、シルト層がれき層中に5枚以上みとめられておりよく連続するが、南部ではあまり多く、厚くもない。シルト層の厚さは10mに達することもあるが、2~4mが普通である。瀬戸市森林公園では、れきが次第に砂にうつりかわっている。また、ここでは水野相の厚さは65mをこえるが、瀬戸市陣屋付近では20mにすぎず、東方に向かって薄くなる。西方に向かっては水野相は尾張夾炭相に移り変わっていく。

濃尾平野の地史(6)

瀬戸陶土層は東海湖の周縁部に分布し、東海湖初期の堆積物である。前記のように、小起伏面上の凹地に堆積したけい砂や粘土層のほかに-部に砂利層もある。亜炭層直下の粘土は耐火材料として使用されている。
矢田川累層は瀬戸層群の大部分を占める地層で、れき層・砂層、シルト層を主体とし、火山灰層や亜炭層も伴っている。大観すれば、下部と上部とに砂れき層が多く、中は砂層と粘土層とが多い。
下部の砂れきの多い部分を水野相といい、中部の砂とシルトの多い部分を尾張用炭相上部の砂れきの多い部分を猪高相と呼んでいる。しかし水野相のあるれき層をどこまでも追跡すると、れき層中のれきが次第に減って砂が多くなり、
いつのまにか砂層とれき層とがくりかえす互層あるいは砂層だけになってしまうことがある。つまり水野相と呼ばれている地層群が水野相の特色を失って、尾張夾炭相へ移化している。その移化する方向は上下ばかりではなく、横方向にも変わるので、水野相が尾張夾炭相の下にあるとは必ずしもいいきれない。
水野相はチャートのれきを主成分とするれき層にシルト層が伴うもので、瀬戸市水野では広く分布している。下位の陶土層を不整合におおうことが多いが、陶土層から由来した物質が多量に混入して、陶土層とあまり差のない地層を含むこともある。

濃尾平野の地史(5)

濃尾平野、伊勢湾は約100kmを1辺とする地塊として、西側が沈降し、東側が相対的に上昇する傾動運動を行なった。
この沈降部の西縁は鈴鹿山脈のふもとを南北に走る一志断層であるが、この断層は1本の単純な断層ではない。
多数の断層が雁行状に配列し,その間は単なる急傾斜帯となっていることもある。養老山脈はこの地塊の端にある小地塊と言え、さらにこの地塊も小塊に分けて考えることができる。巨視的には、西部が沈下する大きい傾動地塊の西側にできた堆積地区が濃尾平野である。
鮮新世後半の濃尾平野・伊勢湾地域に形成された堆積盆地にほ海成層はみられないので、この堆積盆地を東海湖と呼んでいる。
東海湖ほ鮮新世半ばから洪積世前期まで沈降を継続し、西部ではその時期の沈降量は1000mをこえた。三重県ではこの堆積物を奄芸層群と呼び、名古屋付近では瀬戸層群と呼んでいる。
瀬戸層群は瀬戸陶土層と矢田川累層とに分けられている

濃尾平野の地史(4)

第二瀬戸内期以後の濃尾平野

鮮新世に入ると、日本列島に進入していた海はかなり退き、瀬戸内区の中新世の堆積盆地群は陸化した。鮮新世後半になって再び堆積作用が始まる。この時期を第二瀬戸内期と呼ばれている。
陸化期に花こう岩類の露出する山地は風化、浸食され、中国地方でほ再び準平原化作用が行なわれたと主張する学者がいる。
濃尾平野でも、この2度目の準平原の存在を積極的に主張する証拠が少なくない。瀬戸や多治見の陶土層はこのような時期の堆積物とみられている。つまり,長期間の風化で石英以外の鉱物はほとんどすべて分解されて粘土や溶解物となり、小起伏の準平原の凹地にはこれらの風化物がたまり、石英はけい砂層をつくり、粘土は陶土層をつくったのである。
鮮新世に入って、瀬戸内区は再び沈降を始め、浸食地域から堆積地域に転化した。こうして第二瀬戸内期に入った瀬戸内区の基盤の運動は、第一瀬戸内期に比べて明瞭な差異があらわれる。
それは基盤の傾動運動で、瀬戸内区はこの傾動運動によって山地と盆地に分けられていった。

濃尾平野の地史(3)

第一瀬戸内期の濃尾平野

東北裏日本から現在の富士火山帯に連なる地域は、第三紀前半を通じて浸食され続けていたが、第三紀後半の中新世の初めになると急に沈降しはじめ、火山活動と堆積作用の地域となった。
これにややおくれて、西南日本内帯では、中央構造線の北に沿う地域と、北陸から山陰にかけての地域とが沈降し,堆積作用の行なわれる区域となった。このうち、中央構造線に沿う地域は、堆積の範囲と環境とが現在の瀬戸内海と似ているので、瀬戸内区と呼ばれている。また瀬戸内区の中新世の地層の堆積した時期を第一瀬戸内期と呼んでいる。
第一瀬戸内期には、鳳来寺山を含む設楽盆地、岐阜県東南部の瑞浪盆地、知多半島南端、三重県の一志盆地などに堆積盆地が生じて、暖い浅海の堆積物がたまった。濃尾平野の周縁地域の瑞浪、知多半島南端、三重県菰野町付近、豊田市猿投町八草付近で海成の中新世の地層が露出している。

また濃尾平野内部では深いボーリングによって、海成の中新世の地層がみつかっている。知多半島基部の大府町内の深層ボーリングでは、知多半島南端の中新世の地層ときわめてよく似た頁岩が只化石を含んだままで採集された。
三重県菰野町付近の中新世の千種層は瑞浪盆地の地層とよく似た岩相と化石をもっている。これらの事実から濃尾平野の地下にある第一瀬戸内期の地層を推定すれば、砂岩・泥岩の互層に凝灰岩を伴う浅海の堆積物がゆるやかな傾斜で広がっているであろう。
ただし、鮮新層が撓曲や断層で変形しているところでは、そのさらに下位にある中新世の地層も断層運動などで複雑な構造をつくっているであろう。中新世の末頃、第一瀬戸内期の各堆積盆地は地殻変動により、単純な変形作用を受けて隆起した。
中新世に堆積した地層中には、暖かい浅海の底にすむ動物の化石が含まれ、それらの堆積盆地はたがいによく連絡した海であったらしい。

濃尾平野の地史(2)

基盤岩類-2

美濃帯は、砂岩、頁岩、れき岩チャートを主とする古生層から構成され、石灰岩や輝線凝灰岩は少ない。
濃尾平野の北と西に露出する赤坂、伊吹、藤原の石灰岩は山頂部を占めており、他の帯から南へ移動してきたものと主張する学者もいる。これらの山頂にある石灰岩を主とする部分は秋吉相と呼ばれている。石灰岩以外に化石はみられないが、これらの地層ほたいてい二畳紀層で、石炭紀層は少ない。また化石はフズリナなどの有孔虫やサンゴ、腕足貝を主とするが、いずれも浅く暖い海のものである。岐阜市北方の低い山地では、かたいチャートが突き出して山稜をつくっているが、その慣斜は,複雑な褶曲のために変化がはなはだしい。花こう岩の貫入を被った部分は熱変成作用を受けて、ホルンフェルスとなっている。
領家帯は片麻岩と花こう岩とが複雑にいりくんだ構造をもっているが、片麻岩はもともと美濃帯と連続していたと考えられる古生層が変成されてできたものであるから、内部の構造は美濃帯のものと似ている。しかし濃尾平野の基盤として考えられるものは、中生代末に美濃帯、領家帯の境付近に貫入した新期の花こう岩であろう。瀬戸市付近に露出する花こう岩の絶対年令については、7300万年、6400万年という値が報告されている。

地下深い所に貫入したこれらの花こう岩は,その後の隆起で表面の古生層は浸食、削剥され、ついには花こう岩も地表に露出するに至った。隆起が止んでも風化や浸食は続いたので、山地は次第に低くなり、起伏の少ない平たんな地形となった。このときの地形を準平原というが、その後の隆起で、その-部は現在の愛知県東加茂都,額田郡などの三河高原(三河隆起準平原)と呼ばれる平たん面となって残っている。

濃尾平野の地史(1)

基盤岩類-1

地質学でいう基盤は古生代よりも古い地質時代の岩石で構成されている。濃尾平野の生いたちを考えるうえでは、古生層・花こう岩に第三紀層も加えたものを地質構成上の基盤とみることができる。 濃尾平野は西南日本内帯の東部に属している。西南日本ほ中央構造線と呼ばれる大断層帯によって内帯と外帯とに分けられる。外帯には三波川帯、秩父帯、三宝山帯、四万十北帯、四万十南帯がが並び、内帯には領家帯、美濃帯、三群帯、飛騨帯があって、中生代末の花こう岩がこれらを貫いている。 古生代から中生代にかけて存在していた本州地向斜に堆積した海成層は、中生代後期までに地殻変動をうけ、変成帯をつくった。

この変成帯の軸部を構成するものが三波川帯の結晶片岩と債家帯の片麻岩と花こう岩である。軸部の両側に未変成のまま残った古生層がいわゆる秩父古生層である。三波川帯、領家帯の関係と似た関係にあるのが三群帯,飛騨帯であるが、飛騨帯などは領家帯などよりさらに1億年以上も古い別の変成帯を構成している。 濃尾平野の大部分は古生層の美濃帯の上にあり,一部が領家帯の上にある。両帯とも中生代末までに褶曲を終え、花こう岩も貫入したので、これ以上は褶曲できない状況になってしまった。そこで第三紀層の堆積前には二次的な基盤が完成していたといえる。

濃尾平野では第三紀前半の地層ほ堆積していない。第三紀後半の地層ほ著しい褶曲運動受けていないから,第三紀以前の地層や岩石と第三紀後半以後の新生代の地層との強度の差ほ大きい。しかし新生代のうちでも、第三紀層と第四紀層とでは、地層の強度に差があり,建築物や構築物の基礎として第三紀層を含めて基盤と考えてもよいであろう。

愛知県古民家の特徴について(30)

明治29年の牧田川・揖斐川・長良川・木曽川の大洪水で輪中の被害が最大であった様子が分かる。鈴村ソトム氏の『岐阜県輪中地帯、主として羽島郡、養老郡に於ける水害対策の概況』(日本建築学会)によれば、大垣市南部や安八郡の輪中は浸水が天井より二階上に至り、海津郡に属する地方では平均して鴨居の位置である。羽島郡に於ては正木村(現羽島市正木町)以南は地上6~9尺(1.8~2.7m)位の浸水、それ以北の地方(現柳津町)は床上浸水1~4尺程度であったと報告されている。城戸久博士の『城と民家』(毎日新聞社)によっても同様である。これらの位置から、さらに南下した愛知県側の立田村(立田輪中)、弥富町(五明輪中・森津輪中)に至っては、総ての家々が鴨居以上に浸水の被害を受けたことが推測できるのである。
水屋には、倉と名付けられるもの、離れ屋・住居と名付けられるもの、倉と臨時住居と名付けることのできるものがある。これを中沢弁次郎氏は『輪中集落地誌』に、米倉式水屋、高座敷式水屋、水屋式住居の3つに区別している。以上を総合してみても、特に格式ある場合は別として、一般には江戸末から明治初期にかけて普及した水屋と考えられるのである。

愛知県古民家の特徴について(29)

輪中に現存する一般的な水屋構えは、およそ東南向に屋敷を構え、東側に主屋・西側に水屋が配置されたものが多い。屋敷を嵩上げし、さらに水屋の部分に石垣を積み上げ、桁行3間・梁間2間の土蔵または土蔵式の建造が一般である。現在、愛知県には数例が現存し、先の一般の水屋構えと同様な屋敷構えを持つが、水屋の建造された造成地が異なっている。

水屋部分の石垣を積み上げるまでは通常の水屋構えと同様である。石垣の規模も大きく高さも幾分高いが、建物(水屋)の下に船入場を設けて、洪水や雨水の溜で浸水を受けたときに、小舟の出入りができる場所が設けてある。この場合に水屋そのものは、先の土蔵と異なり、生活のできる離れ屋が建造されるのと、貯蔵と生活の両面に活用できる建造になっている。これら水屋の床板を自由に取り除くことのできるものであった。