愛知県古民家の特徴について(8)

愛知県下に分布する古民家の形式について(8)

船枻造形式は、豊川・天龍川の上流域の山間部に分布している形式で、この形式は釜屋建形式とほぼ同時期で、江戸中期(18世紀初期)から明治初期(19世紀末)にかけてとみられる。
古い形式は茅葺の農家にみられ、町屋には新しい形式がみられる。
現存の遺構からは、農家の茅葺屋根の18世紀中期以前と判断できる建造にみられた。
屋根の改変によって板葺石置屋根になり、杉皮苦の石置屋根となり、その後にセメント瓦葺に変化してきたことを知ることができる。
分布範囲は東栄町・設楽町・作手村・津具村・豊根村である。
また、隣接する長野県の根羽村・天竜村や静岡県水窪町にもみられ北上して飯田市までの各町村にも同形式をみることができる。
建造期の古い農家は愛知県に現存しているが、他の多くは19世紀以降の建造が少なくない。

愛知県古民家の特徴について(7)

愛知県下に分布する古民家の形式について(7)

釜屋形式に類似する全国的な分布をみると、沖縄県・鹿児島県・佐賀県・愛知県・静岡県・千葉県などにも現存するが、間取り・構造・規模は異っている。
棟を2つ構え、2棟の軒が接する位置(谷)に樋を掛けて、平面(間取)的には一体をなすのと、別の構成になるものとがある。
また、高知県の高岡郡と幡豆郡の一部に大正時代までには見ることができたと言われている。
屋根の葺材料は、豊川・天龍川流域ともに茅や麦藁茸によるものが最初で、改変されて板・杉皮・瓦に変ってきたものである。先述の分布地方も茅葺によるのが少なくない。

愛知県古民家の特徴について(6)

愛知県下に分布する古民家の形式について(6)

釜屋そのものは、周旋釜屋が示すとおり煮炊を主とする端反(大釜)と小型の竈を設備し作業場や道具類を置くところである。
釜屋建には、居宅と釜屋の両者が同時期に建造される事例は稀である。
その多くは居宅が古く、釜屋は後になって建造されたのが一般である。それに転用材(古材)による建造も少なくない。
居宅の建造は、上屋高(骨組の高さ)が比較的低く、鴨居の位置近くに胴梁が架構されているが、釜屋の上屋高は居宅よりも桁高さ分だけ低く建造されているのが少なくない。

愛知県古民家の特徴について(5)

愛知県下に分布する古民家の形式について(5)

釜屋建形式は分布範囲が限られ、その建造期も江戸中期(18世紀初期)から明治初期(19世紀末期)に建造された形式である。
釜屋建形式の名称には、橦木造・周旋釜屋・釜屋建などが三河・遠江に残っている。
橦木は屋根伏の形がT型になっている。

愛知県古民家の特徴について(4)

愛知県下に分布する古民家の形式について(4)

鳥居建形式の名称は、架構造形式から呼ばれたものである。
しかし、江戸末期から明治初期にかけて畳が採用され、畳数による呼称が残っている。
架構造の名称は、上屋構成を三河地方で引物・二引・二引・鳥居・鳥居建・鳥居建造などと呼び、尾張地方では四つ建・枠組・中桁造・四闇・大梁・鳥居・鳥居建・虹梁造などと名付けられている。
これらの名称の中で鳥居・鳥居建と呼ばれる地方が多いことから、鳥居建として表現されている。
鳥居建は農家に限らず、町屋や漁家にも使用されていた。

愛知県古民家の特徴について(3)

愛知県下に分布する古民家の形式について(3)

鳥居建は尾張全域に散見している。三河では矢作川流域(三河の2/3)に分布していた。
さらに美濃のほぼ全域にも分布している。美濃の関ケ原から揖斐川上流にかけて近江の形式が混在し鳥居建に類似した形をしている。

愛知県古民家の特徴について(2)

愛知県下に分布する古民家の形式について(2)

鳥居建形式は、古い形態で分布範囲が広く原始の竪穴住居に起源する。
このことは、現存する江戸初期(17世紀中期)以降の農家形式から、間取りや構造の形態を分析すると竪穴住居との関連性があると思われる。
発掘調査から多くの竪穴住居群跡が明らかになっているので、古代以前の住居跡で中世の庶民住居の史資料が十分でなく、今後、調査研究の進展から明らかになると思われる。
また、中世の鳥居建形式がどんな過程を経て現存する遺構を調査することによって、古い形態を想像することしかできないのが現状である。

愛知県古民家の特徴について(1)

愛知県下に分布する古民家の形式について(1)
鳥居建・釜屋建が多く、他に船枻造・水屋・町屋が点在する。
鳥居建の分布は、三河の矢作川流域から尾張全域、美濃の揖斐川境までの広範囲に散在している形式で、釜屋建は、三河の豊川流域から遠江の天龍川流域にかけて分布している。
船楷造は、三河山間部から信濃の伊那谷・遠江の山間部に分布するし、水屋は、美濃の牧田川・揖斐川・長良川に木曽川が合流する地方にみられる。
町屋は、卯建造や中二階建の塗寵式に組格子を入れた、江戸時代の旧街道宿場町や問屋町に現在も残る。

名古屋市港区の干拓(新田)について(19)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 宝来新田について

文政五年(一八二二)熱田大宮司千秋家によって開発。所謂、名義拝借による開発施行である。通常、大宮司新田とも呼ばれていた。一説では出資者は戸田村の山田弾六だともいわれていたが不詳。「蓮台越」という字名は蓮台に棺桶を載せて川を越して、墓地に運んだ処がその名を残したという。
その後、万延元年大風高浪にて堤千五百八十間破壊、明治元年、明治三年と暴風による被害を受けた。

名古屋市港区の干拓(新田)について(18)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 茶屋新田について

寛文三年(1663)より寛文九年(1669)の間で茶屋長以によって開発された。茶屋家は慶安年間(1648~52)尾州茶屋家として初代新四郎長吉(法名長意)より始まる。長意は徳川家康の菩提をとむらうため位牌所として等覚院日富を開基として、通化院日境を開山に迎えて源頂山情妙寺を建立した。長意の子二代目茶屋四郎次郎清延の法名情延日実、母妙情日寿の各一字をとって寺号とした。(東区筒井町所在)代目孫四郎俊胤も法名が長意である。
尾洲茶屋家は江戸茶屋、京茶屋と並び玉来印船貿易を営み繁栄し、尾張でも政商の名が高く、初代長意が茶屋新田、二代長以が茶屋後新田を開発経営した。茶屋後新田は開発した延宝五年(1677)当初は二代目長以の所有であったが、水害など負債がかさなり、九代目長与の明治初年頃に関戸家の所有となった。茶屋新田は付近の新田より低地であったので、水害に遭い、滞水害にしばしば遭った。