愛知県古民家の特徴について(4)

愛知県下に分布する古民家の形式について(4)

鳥居建形式の名称は、架構造形式から呼ばれたものである。
しかし、江戸末期から明治初期にかけて畳が採用され、畳数による呼称が残っている。
架構造の名称は、上屋構成を三河地方で引物・二引・二引・鳥居・鳥居建・鳥居建造などと呼び、尾張地方では四つ建・枠組・中桁造・四闇・大梁・鳥居・鳥居建・虹梁造などと名付けられている。
これらの名称の中で鳥居・鳥居建と呼ばれる地方が多いことから、鳥居建として表現されている。
鳥居建は農家に限らず、町屋や漁家にも使用されていた。

愛知県古民家の特徴について(3)

愛知県下に分布する古民家の形式について(3)

鳥居建は尾張全域に散見している。三河では矢作川流域(三河の2/3)に分布していた。
さらに美濃のほぼ全域にも分布している。美濃の関ケ原から揖斐川上流にかけて近江の形式が混在し鳥居建に類似した形をしている。

愛知県古民家の特徴について(2)

愛知県下に分布する古民家の形式について(2)

鳥居建形式は、古い形態で分布範囲が広く原始の竪穴住居に起源する。
このことは、現存する江戸初期(17世紀中期)以降の農家形式から、間取りや構造の形態を分析すると竪穴住居との関連性があると思われる。
発掘調査から多くの竪穴住居群跡が明らかになっているので、古代以前の住居跡で中世の庶民住居の史資料が十分でなく、今後、調査研究の進展から明らかになると思われる。
また、中世の鳥居建形式がどんな過程を経て現存する遺構を調査することによって、古い形態を想像することしかできないのが現状である。

愛知県古民家の特徴について(1)

愛知県下に分布する古民家の形式について(1)
鳥居建・釜屋建が多く、他に船枻造・水屋・町屋が点在する。
鳥居建の分布は、三河の矢作川流域から尾張全域、美濃の揖斐川境までの広範囲に散在している形式で、釜屋建は、三河の豊川流域から遠江の天龍川流域にかけて分布している。
船楷造は、三河山間部から信濃の伊那谷・遠江の山間部に分布するし、水屋は、美濃の牧田川・揖斐川・長良川に木曽川が合流する地方にみられる。
町屋は、卯建造や中二階建の塗寵式に組格子を入れた、江戸時代の旧街道宿場町や問屋町に現在も残る。

名古屋市港区の干拓(新田)について(19)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 宝来新田について

文政五年(一八二二)熱田大宮司千秋家によって開発。所謂、名義拝借による開発施行である。通常、大宮司新田とも呼ばれていた。一説では出資者は戸田村の山田弾六だともいわれていたが不詳。「蓮台越」という字名は蓮台に棺桶を載せて川を越して、墓地に運んだ処がその名を残したという。
その後、万延元年大風高浪にて堤千五百八十間破壊、明治元年、明治三年と暴風による被害を受けた。

名古屋市港区の干拓(新田)について(18)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 茶屋新田について

寛文三年(1663)より寛文九年(1669)の間で茶屋長以によって開発された。茶屋家は慶安年間(1648~52)尾州茶屋家として初代新四郎長吉(法名長意)より始まる。長意は徳川家康の菩提をとむらうため位牌所として等覚院日富を開基として、通化院日境を開山に迎えて源頂山情妙寺を建立した。長意の子二代目茶屋四郎次郎清延の法名情延日実、母妙情日寿の各一字をとって寺号とした。(東区筒井町所在)代目孫四郎俊胤も法名が長意である。
尾洲茶屋家は江戸茶屋、京茶屋と並び玉来印船貿易を営み繁栄し、尾張でも政商の名が高く、初代長意が茶屋新田、二代長以が茶屋後新田を開発経営した。茶屋後新田は開発した延宝五年(1677)当初は二代目長以の所有であったが、水害など負債がかさなり、九代目長与の明治初年頃に関戸家の所有となった。茶屋新田は付近の新田より低地であったので、水害に遭い、滞水害にしばしば遭った。

名古屋市港区の干拓(新田)について(17)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 福田前新田について

寛延二年(1749)に上萱津村の林善蔵が開発したもので、開発後、自ら居住した。その後経営不如意となり、名古屋の伊勢町岡田家へ売渡した。
東を流れる福田川は屈曲しているので、いざという時に排水の用にならず、沿岸一帯はたびたび水害をもたらした。享和二年(一八〇二)新居屋から南へ悪水路が掘られ、西福田新田と共に福田川悪水普通水利組合が組織されたが、それでも上流と下流では標高差が大きく、この辺は常に出水の不安にさらされてきた。
昭和二十九年協和土地改良区が設立されたが、昭和三十四年の伊勢湾台風には甚大な被害を受けた。今は福田川沿岸の樋門による自然排水のはか、ポンプ場が設置されている。

名古屋市港区の干拓(新田)について(16)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 福田新田について

寛永十七年から二十年にかけて豪農鬼頭勘兵衛景義によって開発された。新田の中央を流れる戸田川を境に東福田と西福田に分かれていた。 家数一三八、人数七三八、牛馬四六、川運上代や堤枯草代、柳代銀、舟船、佐屋路の万場の助郷などを村民が負担してかなり重税であった。地主が鬼頭家が殆ど専有していた。
新川堤の西が入津になっていて、東福田新田の知多屋敷まで、東西に民家が連なっていた。この道が明治になって東海道筋となり、熱田と桑名を結ぶ主要道路となって活用された。又この辺り灰問屋が二戸あって知多浦より波不知船が来て灰を積み出していたという。又新田は殆ど湿田で、農舟が唯一の交通機関であったという。新川に袈かる両部橋の辺に、当時は渡し舟が運賃一人三文を支払っていた。但し、船頭は居なく自分渡しで、使用者は運賃箱に各自は支払っていたと言う。