名古屋市港区の干拓(新田)について(15)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 熱田新田について

正保四年(1647)に敬公(義直)が開墾したので、御新田と敬称されていた。慶安四年(1652)に御縄入があり、その時、東より一番から三十三番までの地割をして検地が定まった。寛文七年(1667)になって、一番割から三十三番割までの割増再検地があった。この番割は西国三十三番の観音をそれぞれ配置したといわれているが、文政五年(1822)頃には既に散在、合祀されていた。
以上のように各番割新田の面積は必ずしも均等ではなかった。東組より西組の方が狭少の新田が多く、東高西低の勢力差があったようである。
明治九年、東組は熱田新田東組村となり、西組と別れた。明治二十二年十月に千年村と共に宝田村になり、明治三十九年五月に小碓村に属したが、明治四十年七月一六日に名古屋市に合併した。西組の方は明治十一年十二月二十八日に熱田古堤亥田と合併、明治二十二年には明徳村に属し、明治三十九年五月に宝田村、寛政村と共に小碓村となった。
この新田は藩営干拓のうち最大のもので、尾張藩ではこの事業に全力を投じ、家老成瀬隼人正を総統卒者に任命した。

名古屋市港区の干拓(新田)について(14)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 藤高前新田について(2)

現在はかつての新田をたすき掛けに名四国道が走り、対岸の飛島村梅之郷にかけて日光川大橋がかかっている。かつては堤防の決壊することしばしばあったが、大空10年の決壊以来堤防は補強され往年の憂いも一掃されている。堤防外でも大潮のとき(新月または満月の一、二日後)には砂地が見える。最近は土地改良事業も進み、用悪水路の改善で、収穫も一段高まっているという。
干潮となると地面があらわれるという藤高前新田地先の藤高新田字千鳥六八四番地は新田開発の失敗地でもある。伝えによれば渡辺甚左衛門という人が明治初年に埋立てたという。始め樋門を取り付けたがその後の経営のメドが立たず、その後宇野彦吉という人が手をつけたがこれ亦成功出来なかった。

名古屋市港区の干拓(新田)について(13)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 藤高前新田について(1)
文政五年(1822)に伊藤喜左衛門によって開発され、藤高新田の南方に位置し、通称「藤前」と呼称されていた。当時は一円蔵入地で、新田の南が汐溜で広い遊水池で、養魚場や釣場になっていた。新田の堤防の外側は千鳥と呼ばれる砂地、名の如く渡り鳥の生息地となっている。戦前は潮干狩りの良場で、新田が開発された頃は採れた貝は熱田の市場に出荷されていた。農作業は専ら農舟が使用され、新川、日光川に挟まれた低地帯のため、早くから水害対策が施され、堤防に水屋を建てたり、藤高新田の耕作地の約三割を入作していた。明治二十二年茶屋村の大字となり、明治三十九年に南陽村、昭和二十四年に南陽町、更に昭和三十年から名古屋市港区となる。

名古屋市港区の干拓(新田)について(12)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 藤高新田について
寛政九年(一七九七)に福田村西川弥市の開発であるが、海に近いため、幾度か暴風で破堤し、所有者の変動が激しいところであった。一名、弥市新田とも言う。
戦前までは「おんか祭り」といって、平家の猛将、平景清の姿を画いたのんぼりを先頭に太鼓を鳴らして、田の蛾などを追いながら子どもを中心にした行列を夏場にした。萱津村あたりより村送り行列は福田村に入り、茶屋新田村から藤高新田へと北から南へ笛、太鼓の音もにぎやかに掛声と共に藤高前新田へ、戦時中はそんな余裕も農村にはなくなりやめてしまった。
この新田の開発工費の一部は名古屋、大船町の伊藤忠左衛門より借入されたものであったため、西川家の不如意から、伊藤家へ売却されている。神社は神明社、寺院は喚応寺(曹洞宗)と桂花庵(浄土宗)、伊勢湾台風で一時中断した神楽一式は藤前神明社に保存されている。
明治二十二年に茶屋村、明治三十九年南陽村、昭和二十四年南陽町、昭和三十年から港区となる。明治八年に蘭風学校から分かれて藤高学校が開校、明治二十二年茶屋尋常小学校となった。

名古屋市港区の干拓(新田)について(11)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 土古山新田について

元文五年(一七四〇)に海東郡蟹江村の鈴木新助が御為金500両を藩に上納して開発した一種の請負新田である。発起人は鈴木新助だが、他に出資者として成瀬氏が居た。隼人正の控地の熱田新田前の西山手前より新田を取立願があったので、その喪山の土古山辺を開墾させた。
土古山新田は明治五年四月二日名古屋県が愛知縣となり、同年九月二十九日小碓村は第二大区第五小区に属し、土古山新田は他の村と合併んで小碓村に入った。その後、明治十一年七月に、熱田新田西組となり、明治二十四年四月に明徳村に属した。更に明徳村は明治四十年七月十六日に名古屋市に編入した。開拓当時は高さ二二尺の堤防沿いにならんで家が建てられた。
明治六年の学制で第三十九番小学当知学校が開校。明治二十二年明億村の大字となる。
氏神は八剣社。 なお、この新田は成瀬隼人正の控地で、開発のとき、成瀬家より、新助に与えた澄状によれば新田開発は五十町歩になっている。これは給人が薄に請願して新田を開発した典型的なものである。
かように新田の給人が請控となるのが普通である.。請控とは給地に附属する蔵人地をその給人に寄託することであり、給人は小額の年貢を上納することになる。この土古山新田も成瀬家の請控となっていた。明治初年では土古山新田村にして、小字名に屋敷地、西百聞通、西中田、前中田があった。明治二十二年十月には当地新田、熱田新田西組と共に明徳村になった。

名古屋市港区の干拓(新田)について(10)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 茶屋後新田について

延宝五年(1677)茶屋長以が開発者この頃になると茶屋家の朱印船貿易の余録もなくなり、本来の戦争の際の呉服物(陣旗、兵士の下着類)の需要もなく、平時の呉服販売も天保の改革の前夜ともなればこれ亦、需要が底をつくなかでの新田開発も予想外の暴風の被害がかさなり不作ならばさすがの茶屋新田も傾きかければ内輪不如意となり、名古屋の関戸家よりこの新田を抵当として金を借入したが、その返済が出来ずに文化八年(1811)にこの新田の三分の二所有権を関戸家に移し、借金を返済したが、なお残りの三分の一は名古屋の伊藤忠左衛門(川伊藤)の所有となり、その後、明治初年になり、すべてが関戸家の所有に変った。開発年次不詳の新田西端に戸田川と福田川の河口があり、当新田西堤防は西福田境まで潮が入る川であったが、戸田川の川筋替と福田川の河口を西南隅より下げ、内川として堤防を西に築き替えたので、現在の神明社西側高地より南、地蔵堂高地に至るまでは旧堤防の敷地であった。 この新田は日光川に沿い、低湿地にして排水が自由にならず、年々冠水の害を被り、収穫の減損も甚だしく、作人の困憊がその極みに達したので、地主関戸家はその救済策として西南隅に排水機を設置し塩害を防いだ。そのためか収穫も倍増し、更に近年土地改良事情が進歩し、用悪水路の改良と排水機の改築がなされている。

名古屋市港区の干拓(新田)について(9)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 西福田新田について

貞享元年(1684)の検地により西福田新田が成立すると、東福田新田をまとめて福田新田村と称した。もともと寛永二十年に鬼頭景義が東福田新田分と西福田新田分と同時に開発したものであるが、投書の水帳によると西福田辺りは大部分池川で、志水家では自分人足でこのあたりの池川を埋め立て、田畑106町4反1畝28歩を開拓したのが西福田新田である。享和二年(1802)春、戸田川を西福田東端にて締切り、茶屋新田と茶屋後新田の境を開削し新に川筋を設けた。川替の担当者は大字福田の二村清左衛門が開削したという。この新田は当時、海東分、戸田分、蟹江分と別れていて、海東分、戸田分は戸田川以西、福田川までをいい、蟹江分は福田以西を呼称した。舟渡しは東福田と同じく、自分渡しで使用料を支払い自分で漕いで渡ったとある。

新田の地名に「古墳」という小字があるが、湊場で江岸につなぐ網役をつとめた家柄が、百姓の暇に漁事をもしていたという。福田新田開発の時、西福田南填を湊場に拡張し、更に、茶屋後新田開発の時、その西堤に振替え、その後寛政八年(1796)二つ寺井筋普請に付、西福田机掘り下げとなり、湊札内になうて漁業に差し支えのため、願により机先茶屋後新田西堤にて湊を受取り漁事をつづけたという。

南陽村が合併までは網役であった服部家を通称「湊」と呼んでいた。

名古屋市港区の干拓(新田)について(8)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 甚兵衛後新田について

寛延三年(1750)に福田新田の西川甚兵衛吉成が自分金で開発に着手、四年後に完成。吉成は甚兵衛吉蔵の孫である。その後十三年間は作取不能で見立免。用水は甚兵衛新田より引く。高成となったのは享和二年(1802)である。この新田は東西四十五間。用水は西井筋にかかり、甚兵衛新田より流れていた。

新田の南西は庄内川で、川下にある新田故、干天や塩害の悩みがあった。明治二十一年四月七日に公布された法律第一号による市制町村制により、名古屋区は翌明治二十二年十月一日より名古屋区より名古屋市となり、当時の甚兵衛後新田は熱田前新田、宝神新田、稲永新田と合併、寛政村となった。明治三十九年から小碓村の大字。氏神は神明社。

名古屋市港区の干拓(新田)について(7)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 神宮寺新田について

文化十四年(1817)に開発され、熱田神宮の神宮寺の名を借りれば新田の開発の許可が藩より認められ易いので「神宮寺名義拝借新田」として申請、開発された新田であるので、その名をつけた。熱田神宮のもとの神宮寺とは愛梁院、不動院、医王院で、その名を借りたという。一村とみとめられるのは明治十一年宝神新田の一部となった以後である。

名古屋市港区の干拓(新田)について(6)

名古屋市古民家耐震の参考として

愛知県名古屋市港区干拓地 小川新田について
寛政九年(1797)に十四山村の佐藤五兵衛が開拓。当初は福田新田又は竹田新田といっていたが、文化二年(1805)十一月に小川新田と改称した。豪商水口屋小川伝兵衛に売却された結果である。その頃、寛政・享和年間には日光川の堤防が度重ねて破壌され、その出費がかさんだのが原因である。
新田内の用水はニッ寺井筋から引く茶屋新田の余水を用いた。当時家が一軒で六人が居住していた。一村とみられるようになったのは明治二十二年茶屋村の大字となった以後である。堤防の決壊原因はそこに堆積する筈の土砂がなかなかとどまらなかったためだと言われている。戸田川と日光川の合流地点であった。
昭和十九年の東南海地震以後、地盤沈下が激しいため、水利用の合理化、代替水の確保と共に揚水規制などの対策がとられいる。日光川沿いは蔑生えが多いところで昔は洲が出来易いようであった。新田開発には手頃の場であったようだ。川蟹が群がっていたという。
水口屋はもともと近世中期に農村から名古屋に出てきた新興商人であった。祖先は大阪夏の陣後、山城国井手里玉水村に住し、天禄十年(一六九七)名古屋・玉屋町に移住、正し徳二年(一七一二)正月から呉服商人、小間物商を始め、天文五年から天明八年迄は商運に恵まれ、しかしその後、文化七年(1810)衰微し遂に廃業となった。水口屋は熱田前新田の南の割をも所有していた。封建社会において最も意義あることは土地と農民の支配である。商人は金銭を以ってそれに参与することが出来、新田を所有することは領主と同じく所有権を有することであり、所有する新田で働く農民たちを支配することは商人にとっては大きな魅力でもあった。物心両面の安定を求めようとする商人の姿がそこに浮彫りされていた。